意味に縛られる人間

そして、「意味を怖れる人間」だ。人間ってのは自分で思っている以上に意味に縛られていると最近思う。「言語」に縛られているというよりは、「意味」に縛られている。意味のために生きようともすれば、死のうともする。自分の存在意義やオントロジー存在論)の問題がそこにあるからだ。(9.11のテロに走った盲信者どもを思い出すといい。)自我という一貫性を保たなければ、意味という一貫性を保たなければ、人間は、意識は、存在できない。それまでの自己の崩壊を怖れるがゆえに、それまでの自己の歴史を否定されてしまうことへの恐れがあるゆえに、つまり「変化を怖れる心」があるゆえに、なにかを信じ、信じる対象を創造するのだ。そうして創られた実在が、自我であると考えている。仮に自我の一貫性が破れるときがあるとすれば、それは狂気の瞬間か、はたまた転じて一種のサトリ?の訪れる瞬間だろう。色眼鏡が外れる瞬間だ。それまで通していた「自我」という現実のフィルターをはずす、又ははずさざるを得なくなったときだ。


そういう瞬間に身を置かざるをえなくなることがはたして幸福なのか、不幸なのかは、なんともいうことができない。


だって、そこにあるのは究極の「自由」であり、究極の「孤独」だから。


わかる?そこらへんのしみったれたクソガキどもが口にする孤独とは訳が違うんだ。

自分の全存在をかけて耐え忍ぶ、死ぬような覚悟で自己と格闘しているもののみが知る、真の孤独なんだ。