ユングコレクション13「夢分析」/ユング より抜粋


ユング夢分析についてのセミナー録から。理論ばかり、ヴィジョンばかり、トランスパーソナルとかいう厨二病ばかりにもてはやされるユング氏だが本書からはおそらくあまり知られていないであろう純・心理学者としての彼の肉声が聴き取れる部分がたくさんあるので、大変いい本だと思った。
すさまじい迫力、名ラインの連続だったので少々長いが引用する。

罪の意味の一切は、あなたがそれを担うところにあります。もし投げ捨てることができるなら、罪が何の役に立つでしょうか。もしあなたが自分の罪をすみずみまで自覚するなら、あなたはその罪を担い、それをともに生きなければなりません。それはあなた自身なのです。でないと、あなたは自分の兄弟を否認することになります。それはあなたの自分の影、あなたの中の不完全な存在、あなたの後を追ってきて、あなたが嫌悪する一切をやってのける存在です。彼は罪を犯します。もしこの仲間が否認されると、彼は集合的無意識のほうに押しやられ、そこで障害を引き起こします。なぜなら、それは自然に反しているからです。あなたは自分の影と接触せねばならず「そう、君は私の兄弟で、私は君を受け入れるべきだ」といわねばなりません。あなたは自分自身に対し好意的(ナイス)であるべきで、兄弟に対して「馬鹿者(Race)、私はお前と何のかかわりもない」というべきではありません。影を否認するのは間違いです。もし影を否認すれば、集合的無意識からの反作用が、人格化という形で暗闇から立ち現れます。敬虔な人は「こんなことはいけない!」といって、影を脇に押しやり、それで満足します。すると突然奇妙なイメージ、性的空想が、深淵から彼の心の中に浮かび始めます。彼が敬虔であればあるほど、彼に襲いかかるものは一層邪悪になります。彼はいわば聖アントニウスであり、こういう敬虔な人は恐ろしいヴィジョンを持つものです。たぶん、女性が彼の精神の中に入り込みます。アニマが、通常は裸体で、おそろしく自然的な姿で浮かび上がってきます。これはタブーを打ち倒す自然であり、集合的無意識の復讐です。集合的無意識は現実です。だからアニマないしアニムスが浮かび上がってくるということも現実なのです。そしてどんな人でも、他の誰かにとっての集合的無意識になりえます。人々が深淵から現れ出てくれば、彼らはまるでダイモーンのように振舞うでしょう、――homo homini lupus、人間は人間にとって狼です。これは人狼(were-wolf)の概念です。


ただ独りでいて、なんでも好きなことができると思っていても、もしあなたが自分の影を否認していれば、つねに存在する精神、あなたの中の齢百万年の人間からの反作用をこうむるでしょう。あなたは決して独りではありません。なぜなら諸世紀の眼があなたを見張っているからです。あなたはただちに、自分がかの老人の前にいることを感じ、諸世紀に対する自分の歴史的責任を感じます。あなたが、この悠久の長きにわたる計画に反する何かをすれば、あなたはただちに永遠の法に対する罪、平均的真理に対する罪を犯すのであり、それは適切ではないでしょう。それはちょうど、消化器官に合わないものを食べたようなものです。あなたが自分の好きなようにする、自分の好きなように考えることはできません。それが百万年の歳をもつ、あの意識(awareness)を傷つけるかもしれないからです。それは突然、反作用を引き起こすでしょう。その反作用の仕方は無数であり、あなたは直接の衝撃を感じないかもしれません。しかし無意識に気づけば気づくほど、あなたはいっそう、法の遵守についての直感的感覚を発達させ、超えてはならぬ一線に触れた時、それを感じ取れるようになっていくでしょう。その一線を越えれば、あなたは直接間接に反作用を受けます。あなたが間違ったことをします。すると、あなた自身の中に非常に強力な反作用を感じるかもしれません。あるいは、つまづいて頭をぶつけるだけかもしれません。あなたはそれを単なる偶然だと考え、自分が誤った考えを抱いたことなど全然思い出さないのです。


これは単純なことですが、これよりずっと複雑な形もあります。つまり反作用があなたの周囲の人々を通じて、環境の中の波動を通じて、あなたにやってくることもあります。反作用はあなたの中だけではなく、あなたの集団全体の中にあります。あなた自身が反応をないとしても、身近な誰か、ひょっとするとあなたの子供たちが反応するでしょう。しかし、それはあなたに対する当然の報いです。なぜなら、あなたは一線を越えたのですから。あるいは厄介な状況が現れて、それが復讐を引き継ぐこともあります。なぜなら集合的無意識は、あなたの頭の中にある機能ではなく、客体そのものの影の側面だからです。私たちの意識的人格が可視的世界の一部であるように、影の側面は集合的側面の中の一つの物(a body)なのです。それは事物の中の未知のものです。影を通じてあなたに影響を及ぼしうるすべてのものも、これと同じです。すべての反作用が、心理的効果の形であなたにやってくるのではなく、他の人々あるいは環境の現実の振舞いという形でやってくるものでもあるのです。


これらの状況がどれくらい関連しているかは一つの仮説です。しかしあらゆる時代の迷信はこの仮説を主張してきました。(略)船が沈みそうなときに、悪いことをした人を探すのは、ひどく古臭い迷信と聞こえるでしょう。しかし事態がうまくいかないようなときには、誰かが一線を侵犯したと推測するのは賢明なことです。というのも、それは無意識を満足させますし、私たちの心理と消化を円滑にするのに役立つからです。その理由はわかりません。かの老人を満足させるような仕方で考えることが賢明なのは、単なる事実です。別な仕方ですることは、あなたとあなたの合理主義を満足させるかもしれませんが、それは世界から何かを取り去ってしまいます。



こんなユダヤ伝説があります。情念の悪しきダイモーンについての、美しく、またけしからぬ伝説です。まことに敬虔かつ賢明な老人がいました。とても善良だったので神に深く愛されていました。老人は生について深く瞑想し、人類のすべての悪は情念のダイモーンに由来することを理解しました。そこで彼は主の前にひれ伏し、世界から情念のダイモーンを除いてくださいと願いました。彼はまことに敬虔な老人でしたから、主はその願いをかなえました。彼は偉大な業績を達成した幸せな気分で一杯でした。その夜、彼はいつものように薔薇の香りをかぐために、自分の美しい薔薇園に行きました。庭はいつもとまったく同じに見えたのですが、何か変でした。香りもどこか違っています。塩のないパンのように、何かが足りず、何かが欠けていました。彼は疲れたのだろうと思い、黄金の盃をとって、それを素晴らしい年代物のワインで満たしました。それは地下室に貯蔵されていたワインで、彼を一度も失望させたことがありませんでした。しかしその味は平板でした。この賢明な男性はハーレムでとても美しい若妻をもっていました。そして彼が妻に接吻したことは、彼の最後の試練となりました。彼女もまたワインや薔薇の香りと同じく、平板でした!そこで彼はふたたび屋根に登り、主に語りました。私は悲しんでいます。情念のダイモーンを除いてもらったことは、私の誤りだったようです、と。そして彼は主に「邪悪な情念の霊を戻してくださることはできないでしょうか」と願いました。彼はまことに敬虔な老人でしたから、主はその願いをかなえました。そして、彼はふたたびすべてを味わってみました。素晴らしいことに、すべてはもはや平板ではなくなっていました―――薔薇には素晴らしい香りがあり、ワインは美味で、妻の接吻は、かつてなく甘いものでした!


この物語から皆さんは、それがどれほど合理的なことであろうと、かの老人の永遠の法を侵犯するならば、あなたは世界から何かを取り去ってしまうのだ、ということを学ぶべきです。世界と私たちの実存は絶対的に非合理的であり、それが合理的でなければならないということは、けっして証明されえないのです。


言及したい部分はほぼ全部だが、まぁ最後の逸話は秀逸だろう。寓話はときに理論よりも多くを語るな。まじで。こういう人よくいるんだよ。あぁ、そうだよ、かくいうこの自分も含めてな?(笑)


個人的には、ユング

集合的無意識は現実です。だからアニマないしアニムスが浮かび上がってくるということも現実なのです。そしてどんな人でも、他の誰かにとっての集合的無意識になりえます。」

の一文が拝めただけで、この本を発掘した価値があったと思った。集合的無意識の概念はあきらかに誤解されている。広まっている割に、誤解されている。妙に神秘主義的思想の側面が付加されて、本来の意味が曲解されている。

むずかしいことはないのだ。現実。だれもがみることを怖れる、現実。自分の心の真実。自分の歴史の積み重ねのこと。それらひとつひとつをみつめ噛みしめること、感じること、そこから明日をみること、今・現在を正しく生き切ること、なにひとつ切り離さず、すべて自分の中に在るすべてをあるがままに感じて、あるがままの自分を生きること、それが悟る、ってことなんじゃないのかい?生きてる、ってことなんじゃないのかい?


切り離された自分が多ければ多いほど、この[わたし]は、生から隔てられる。生きているのに、生から遠ざかっていく。ユングはそのことを言っているのだと解釈している。

あなたは決して独りではありません。なぜなら諸世紀の眼があなたを見張っているからです。あなたはただちに、自分がかの老人の前にいることを感じ、諸世紀に対する自分の歴史的責任を感じます。

そうしてあなたが踏み出す「いま・ここ」における一歩は、百万年前から人類がたどりつくことを強く願った一歩だし、その一歩に、今まさに、あなたは立っているのだ。それは自分の人生における自分の歴史への責任であり、ひいては全人類への歴史に対する責任でもあるのだ。目の前のいまここにある自分の人生を生き切ることが、死んでいった人達やこれから生まれてくる人達、過去・未来みんなの人生を生き切ることにつながるのだよ。ふむ。