『不確定性原理』とは「だるまさんがころんだ」である

量子は遊ぶ

 量子力学の世界では、量子の状態は観測するまで決まらない。精確に言うと「観測するまでは確率的にしかとらえられない」。この「確率的にしかとらえられない」という表現に、多くの人が首をかしげる。特に「確率的に」のところでひっかかってしまうのではないのだろうか。


ヒトが量子を観測していない間、量子はどこで何をしているのかというと、「逃げて隠れて遊んでいる」のである。量子が遊ぼうと思ってやっているのかどうかは別として、量子のふるまいは「だるまさんがころんだ」の遊びによく似ている。

木の幹やら柱にへばりついて「だるまさんがころんだ!」と叫ぶ鬼の役は、量子を観測するヒトや観測装置だ。鬼が振り返るたびに「ぴたっ」と止まらなければいけない、というルールは、ちょうど観測をした瞬間に該当する。





量子の状態は、観測するまでは確率的にしかとらえられない。『だるまさんがころんだ』も、鬼が振り返るまでは誰がどこにいるかは確率的だ。確率的、とはつまりこの辺にいそうだ、ってことだ。だいたいどの辺にいるかは見当がついているが、実際どこにいるかは僕が振り向いてみないとわからない。


『だるまさんがころんだ』ならその遊び場のどこかにいるのかは確かだし、猫なら部屋の中にいるのは確かだ。そして、いる確率が高い場所と低い場所がある。しかも、『だるまさんがころんだ』のほうはさらに量子論的だ。観測者である鬼が観測の対象に影響を与えるのだ。影響によって状態が決まるのだ。

量子も『だるまさんがころんだ』の鬼じゃない子たちも、観測された瞬間に状態が決まる。『だるまさんがころんだ』ならみんなピタッと身体の動きを止めるわけだ。それまでの間は鬼に近づきやすいと思われるあらゆる経路を通って、鬼の背中に向かっているんだ。


我ながらいい喩えではないか。
これはどこかで量子の観測の話に使えそうだ。よし!いいぞ今日の僕。


この喩え、秀逸すぎる…。
あとこの喩えが秀逸すぎると、やっと、理解できるようになった自分を褒めてあげたい…泣


複素数」と「二重スリットの実験」の意味が理解できるようになってから今朝こいつを読んだら、やっと真意が理解できた。



観測するまではあらゆる可能性が「存在」するのが量子の不可思議な世界で、それは観測されるまでは不確定性ゆえに誰にもわからず(人間には観測できないから)まさに『神の領域』であって、量子の「存在」は観測されることによって初めてその無限に存在する可能性のうちからその現象が確定されるということ、か。
またその有様は人間には「確率」として捉える以外に術がないということだ、と。


だから波、ってことね。波動方程式等とあるのは、それら「確率」を捉える術に「波」として解釈すると都合がいい、ってことね。


ふーん。。。


「だーるまさんが…」と言っているあいだ、鬼の脳内、心の中では「こいつがここにいて、あいつはここで…」という可能性の選択肢が、がいくつもいくつも去来しているんだね。その可能性のうちどれかが、観測されることで鬼にとって現象として認識される、んだね。



平行宇宙、って概念もきっとここからきた考え方なんでしょう。たったひとつの歴史が、過去から未来に一貫して続いていると考えがちだがそうではない、と。いくつもの歴史の可能性が量子レベルでの世界で分岐して平行して存在している、と。ホーキングも言ってたなそんなこと。


一体何がおこってるんでしょうねー。量子レベルの世界で。


きっと僕にはわかるまい。


神の領域は
『不確定性』
だから。