精神現象はかならず最終的に物理的な何かになって顕れる。


最近個人的に人間のパーソナリティの大別と判断のセオリーというか、なんかそういうのが分かってきた。

自分がよくみるのは、その人間の「眼の色」と「(その人から見た)左右の空間の使い方」の2つ。

特に眼の色はパーソナリティの影響をかなり受ける。個人的に日々ひとの眼をみて観察していたところ、これはかなり使えると、傾向性ありと判断した。つい最近に人相学にインスパイアされた手法である。自身で改良して使っている笑

左右の空間の使い方は、コールドリーディングより。これもかなり使える。

くわしくは秘密。これは下手こくとみためで人を判断する差別の思想につながるので。
自分で調べてみて。


クレッチマーの体型分類とかだって十分差別的だけどね(笑)
差別的だし古い理論だから、あてにならないとされているけど、あれ、かなり真実を得てるからね笑
とてもよく、参考にしております。笑

ふとっちょだったら、あぁ、こっちか、って大体の見当がついたまま入っていけるわけだ。


結局だな、目に見えないものが大事だし、それが心理学なんだけど、矛盾する性質として心理現象は物理現象にも現れるんだな。どうやら。で、その傾向を測ることでおおまかなパーソナリティ傾向は把握することはおそらく可能。これはとても経験主義的発想(科学的発想といってもいい)で、自分は好きではないのだけど。好きではないことと使えないということはまったくの別物。普段は観念論的発想から考え始めていることがほとんどなんだけどね。これも自分の投影やパーソナリティから端を発しているものだから仕方なし。
そしてあとは自分の直感が頼り。みて、会って、話して、判断するのがどんな心理検査するよりも確実。心理テストに頼るカウンセラーは己の無能さを表している。ただし、自我のフィルターをもったまま会っても無駄。自分の自我が邪魔して相手の自我が見えなくなるから。それは訓練の問題。


科学的発想と、主観的発想のバランスを保つことが人間性の全体を保つ上でも最重要なことである。

自由連想1

心のしがらみや恐れをひとつひとつほどいていくと、心はそれぞれからひとつひとつ自由になっていく。

精神の高みは自由さの度合いで図ることができる。

人間は認識のレベルが上がっていくと、物事の仕組みがよく見えてくるので、自分の恐れの根源もよくみえるようになり、それから離れることができるようになるのである。距離を置くこと、と言った方がいいのかな。
また、離れることができるようになるということは、自ら近づくこともできるようになるという意味を暗に含んでいる。「離れたくても離れられないでいる人」よりも「自ら離れたり近づいたりできる人」の方が一歩上のレベルにいることがわかるだろうか。距離感の取り方がわかるのである。その違いはやはり、自由度であり、乱暴にいうなら、度胸ともいえる。


最後まで人間を縛りつづけるものはなんだろーか。やっぱ最後は「時間」かも、と思った。

時間もまた、精神を縛るもののひとつであろう。

腕時計は外しといた方がいい。ととある友人は言った。

一日の長さは24時間とか、そういう考えから疑いはじめたほうがいいのかもしれない。人間の無意識のボトルネックを外す術はたぶんそこにも大きいひとつがあるはず。時間を考えるおかげで無意識のうちに身体性や思考や感情にセーブがかかってる部分は、たぶんあると思う。

だとしたらそこにある無意識の不安や恐れはどういったものになるのだろう。(空想としての)自己が解体することへの恐れがここにもあるとしたら、
たぶん時間への懐疑ってことは記憶への懐疑にも繋がってくるような気がしてならないんだけどなあ。


アインシュタイン相対性理論はやっぱすごいな。時間の絶対性を脱価値しちゃった。どーいう思考を普段考えていたらその発想に至るのかわからん(笑)あの人にはまだほとんどの人が開けてない無意識のボトルネックをはずしたところが、見えたのだろうか。


病的なまでの好奇心こそが心を開くキーである。



2013/02/04

学問としての心理学の難しさ

認知理論には期待していない。最近なんでかわかんないけど認知心理学(ひいてはその応用である認知行動療法)が嫌いになった。否、本当はわかっている。どうして嫌になったか。おそらく、そこに一抹の虚偽を感じるようになったからだ。

学問であることの根底にエビデンスを据える必要があるのは誰でも知っていること。
でも、なんかあれなんだな。自分の中の声がこう言うんだな。「エビデンスで人間わかったら苦労しねぇよ」と。

認知理論のおかげで心理学もやっと胸を張って学問界を闊歩できるようになったのかもしれないが、その代わり心理学者は自分の心を見つめなくなった。自分の心を使わなくなった。数字や確率で予測してなにが楽しいんだろうか。なにを分かったつもりになったんだろうか。それはマスの論理であって、コアじゃないよ、みたいな。一対一じゃないよ。100対1で理解する方法だよ。多数決の論理だよ。つまり、多勢に無勢だよ。(笑)支配の為の論理ね。
あれ、飛躍しすぎた?大丈夫、いつものこと。←


実験や数値を積み重ねて「外に」向かって構築していくのは他の学問がやればいいことだと思うよ。僕はね。

自分は心理学は「内に」向かって積み重ねていく学問だと思っているもんでね。

それは、もう精確には学問とは言わないのかもしれないね。
フロイト精神分析で「心的現実(Psychic Reality)」の概念を提出したときに、もう科学としての方法論を捨ててしまっている。つまり目に見える客観的な事実factよりも、その人の心の中にある罪悪感や恐れや空想phantasyという、「心的な」fact、内的な現実の重要性という考えに舵を切ってしまったときに、科学であることを捨てた。早い話が目に見えるものより、「目に見えないけどその人にとっては確かにあるなにか」を扱うことにしたわけだから。
これはある種とても危険な道だし、なにより理解を得にくい。「それ、お前の考えたおとぎ話でしょ!?」って言われちゃうから。科学として破綻してしまう。でも、実はそれも真実に至るひとつの方法論として有効なんだよ、ってこと。


外に向かって客観性を100積み上げて最終的に主観を理解する方法論も悪くないし、それはそれでいつかなんらかの真実をみつけるのだと思うけど、(=不確定性原理をみつけるんだと思うけど)

その逆に、「主観を100積み上げることで最終的な客観を理解すること」だってできるってこと。

究極までつきつめられた主観性は、ボコッと地面をつきぬけて万人に共通する心の構造、客観性を一番底の部分に見つけるのよ。


例えばフロイトっていう彼のエディプス・コンプレックス、親殺しとそれにまつわる罪悪感の心理も、彼の病気の、自分で自分を理解する中で生まれた概念で、そういう自分の無意識を発見したときに「えっ、ヒステリーのやつらみんなこれ持ってんじゃん!」ってことに気付いたわけだから。がんばったよね。自分の深い部分にまつわる理解は自分だけに留まらず、他の多くの人の理解にも役立つわけよ。それも一種の客観性。普遍性。


児童精神分析メラニークラインの考え出した抑うつポジション、妄想−分裂ポジションもそう。
あれも自分の理解からつくった概念。知ってる人ほとんどいないと思うけど、あれは人類の知的遺産だね。

分裂した「良い乳房」と「悪い乳房」の対象が統合されてひとつの奥行きをもった複雑な存在として知覚される心的態勢。つまり最終的には母親のメタファーなわけなんだけど。人間には自分に「良きもの」(喜びや快や、母乳・ミルク)をもたらす良い側面もあるけど、同時に自分に欲求不満や憎悪を覚えさせる(自分にとっての)悪しき側面もありますよ、っていう。良きも悪きもあわせてそれがひとりの人間ですね、っていう理解。成長すると現実の知覚レベルが上がってくわけ。より現実に即したものとして。


それが統合されずに分裂、分割(スプリッティング)されるとそれが外に投影されて(自分の内的な分裂は、外的な分裂として感じられるから。つまり投影。)、唐突に今まで良いと思ってた人が自分を迫害してくる人物に感じられたり、悪い人になって、とても妄想的な気分になったりするわけ。(=妄想−分裂ポジション)


それによって重篤なパーソナリティ障害や精神病圏の人の理解が進んだのだから、やはりこういうことを考えた人たちはすごい。よっぽど具合悪くないとできない(笑)具合悪いながらも同時に自我を保ちつづける精神力がないとそういう発想は絶対にできない。自分の中の一番底にある恐れを克服しないとそういうものは、みえない。


なので、そういう自分の心を使わない、自分の無意識を使わないでやった物事の理解には、リアリティーが伴わないわけ。要は早い話が、おもしろくないわけ。(笑)誰の心にも響かないのよ。治らないのよ。深い情緒的なものとの出会いがないと。人は。


煎じ詰めていえば、心理学っていうのは自分の内的な経験の水準に伴って理解が徐々に深まっていくものだ、っていうこと。そうじゃないものは、つまんないし、薄っぺらいのよ。まじで。


書いたら割と言語化できてきたようだ。(笑)つまり自分が認知理論あんま好きじゃないのは、そういう理由ね。
暇を持て余してストレス溜まってたからダーッて書いてみたよ。(笑)


おもしろい話だったでしょ?あ、そうでもない?あら、そう。。。

ユングコレクション13「夢分析」/ユング より抜粋


ユング夢分析についてのセミナー録から。理論ばかり、ヴィジョンばかり、トランスパーソナルとかいう厨二病ばかりにもてはやされるユング氏だが本書からはおそらくあまり知られていないであろう純・心理学者としての彼の肉声が聴き取れる部分がたくさんあるので、大変いい本だと思った。
すさまじい迫力、名ラインの連続だったので少々長いが引用する。

罪の意味の一切は、あなたがそれを担うところにあります。もし投げ捨てることができるなら、罪が何の役に立つでしょうか。もしあなたが自分の罪をすみずみまで自覚するなら、あなたはその罪を担い、それをともに生きなければなりません。それはあなた自身なのです。でないと、あなたは自分の兄弟を否認することになります。それはあなたの自分の影、あなたの中の不完全な存在、あなたの後を追ってきて、あなたが嫌悪する一切をやってのける存在です。彼は罪を犯します。もしこの仲間が否認されると、彼は集合的無意識のほうに押しやられ、そこで障害を引き起こします。なぜなら、それは自然に反しているからです。あなたは自分の影と接触せねばならず「そう、君は私の兄弟で、私は君を受け入れるべきだ」といわねばなりません。あなたは自分自身に対し好意的(ナイス)であるべきで、兄弟に対して「馬鹿者(Race)、私はお前と何のかかわりもない」というべきではありません。影を否認するのは間違いです。もし影を否認すれば、集合的無意識からの反作用が、人格化という形で暗闇から立ち現れます。敬虔な人は「こんなことはいけない!」といって、影を脇に押しやり、それで満足します。すると突然奇妙なイメージ、性的空想が、深淵から彼の心の中に浮かび始めます。彼が敬虔であればあるほど、彼に襲いかかるものは一層邪悪になります。彼はいわば聖アントニウスであり、こういう敬虔な人は恐ろしいヴィジョンを持つものです。たぶん、女性が彼の精神の中に入り込みます。アニマが、通常は裸体で、おそろしく自然的な姿で浮かび上がってきます。これはタブーを打ち倒す自然であり、集合的無意識の復讐です。集合的無意識は現実です。だからアニマないしアニムスが浮かび上がってくるということも現実なのです。そしてどんな人でも、他の誰かにとっての集合的無意識になりえます。人々が深淵から現れ出てくれば、彼らはまるでダイモーンのように振舞うでしょう、――homo homini lupus、人間は人間にとって狼です。これは人狼(were-wolf)の概念です。


ただ独りでいて、なんでも好きなことができると思っていても、もしあなたが自分の影を否認していれば、つねに存在する精神、あなたの中の齢百万年の人間からの反作用をこうむるでしょう。あなたは決して独りではありません。なぜなら諸世紀の眼があなたを見張っているからです。あなたはただちに、自分がかの老人の前にいることを感じ、諸世紀に対する自分の歴史的責任を感じます。あなたが、この悠久の長きにわたる計画に反する何かをすれば、あなたはただちに永遠の法に対する罪、平均的真理に対する罪を犯すのであり、それは適切ではないでしょう。それはちょうど、消化器官に合わないものを食べたようなものです。あなたが自分の好きなようにする、自分の好きなように考えることはできません。それが百万年の歳をもつ、あの意識(awareness)を傷つけるかもしれないからです。それは突然、反作用を引き起こすでしょう。その反作用の仕方は無数であり、あなたは直接の衝撃を感じないかもしれません。しかし無意識に気づけば気づくほど、あなたはいっそう、法の遵守についての直感的感覚を発達させ、超えてはならぬ一線に触れた時、それを感じ取れるようになっていくでしょう。その一線を越えれば、あなたは直接間接に反作用を受けます。あなたが間違ったことをします。すると、あなた自身の中に非常に強力な反作用を感じるかもしれません。あるいは、つまづいて頭をぶつけるだけかもしれません。あなたはそれを単なる偶然だと考え、自分が誤った考えを抱いたことなど全然思い出さないのです。


これは単純なことですが、これよりずっと複雑な形もあります。つまり反作用があなたの周囲の人々を通じて、環境の中の波動を通じて、あなたにやってくることもあります。反作用はあなたの中だけではなく、あなたの集団全体の中にあります。あなた自身が反応をないとしても、身近な誰か、ひょっとするとあなたの子供たちが反応するでしょう。しかし、それはあなたに対する当然の報いです。なぜなら、あなたは一線を越えたのですから。あるいは厄介な状況が現れて、それが復讐を引き継ぐこともあります。なぜなら集合的無意識は、あなたの頭の中にある機能ではなく、客体そのものの影の側面だからです。私たちの意識的人格が可視的世界の一部であるように、影の側面は集合的側面の中の一つの物(a body)なのです。それは事物の中の未知のものです。影を通じてあなたに影響を及ぼしうるすべてのものも、これと同じです。すべての反作用が、心理的効果の形であなたにやってくるのではなく、他の人々あるいは環境の現実の振舞いという形でやってくるものでもあるのです。


これらの状況がどれくらい関連しているかは一つの仮説です。しかしあらゆる時代の迷信はこの仮説を主張してきました。(略)船が沈みそうなときに、悪いことをした人を探すのは、ひどく古臭い迷信と聞こえるでしょう。しかし事態がうまくいかないようなときには、誰かが一線を侵犯したと推測するのは賢明なことです。というのも、それは無意識を満足させますし、私たちの心理と消化を円滑にするのに役立つからです。その理由はわかりません。かの老人を満足させるような仕方で考えることが賢明なのは、単なる事実です。別な仕方ですることは、あなたとあなたの合理主義を満足させるかもしれませんが、それは世界から何かを取り去ってしまいます。



こんなユダヤ伝説があります。情念の悪しきダイモーンについての、美しく、またけしからぬ伝説です。まことに敬虔かつ賢明な老人がいました。とても善良だったので神に深く愛されていました。老人は生について深く瞑想し、人類のすべての悪は情念のダイモーンに由来することを理解しました。そこで彼は主の前にひれ伏し、世界から情念のダイモーンを除いてくださいと願いました。彼はまことに敬虔な老人でしたから、主はその願いをかなえました。彼は偉大な業績を達成した幸せな気分で一杯でした。その夜、彼はいつものように薔薇の香りをかぐために、自分の美しい薔薇園に行きました。庭はいつもとまったく同じに見えたのですが、何か変でした。香りもどこか違っています。塩のないパンのように、何かが足りず、何かが欠けていました。彼は疲れたのだろうと思い、黄金の盃をとって、それを素晴らしい年代物のワインで満たしました。それは地下室に貯蔵されていたワインで、彼を一度も失望させたことがありませんでした。しかしその味は平板でした。この賢明な男性はハーレムでとても美しい若妻をもっていました。そして彼が妻に接吻したことは、彼の最後の試練となりました。彼女もまたワインや薔薇の香りと同じく、平板でした!そこで彼はふたたび屋根に登り、主に語りました。私は悲しんでいます。情念のダイモーンを除いてもらったことは、私の誤りだったようです、と。そして彼は主に「邪悪な情念の霊を戻してくださることはできないでしょうか」と願いました。彼はまことに敬虔な老人でしたから、主はその願いをかなえました。そして、彼はふたたびすべてを味わってみました。素晴らしいことに、すべてはもはや平板ではなくなっていました―――薔薇には素晴らしい香りがあり、ワインは美味で、妻の接吻は、かつてなく甘いものでした!


この物語から皆さんは、それがどれほど合理的なことであろうと、かの老人の永遠の法を侵犯するならば、あなたは世界から何かを取り去ってしまうのだ、ということを学ぶべきです。世界と私たちの実存は絶対的に非合理的であり、それが合理的でなければならないということは、けっして証明されえないのです。


言及したい部分はほぼ全部だが、まぁ最後の逸話は秀逸だろう。寓話はときに理論よりも多くを語るな。まじで。こういう人よくいるんだよ。あぁ、そうだよ、かくいうこの自分も含めてな?(笑)


個人的には、ユング

集合的無意識は現実です。だからアニマないしアニムスが浮かび上がってくるということも現実なのです。そしてどんな人でも、他の誰かにとっての集合的無意識になりえます。」

の一文が拝めただけで、この本を発掘した価値があったと思った。集合的無意識の概念はあきらかに誤解されている。広まっている割に、誤解されている。妙に神秘主義的思想の側面が付加されて、本来の意味が曲解されている。

むずかしいことはないのだ。現実。だれもがみることを怖れる、現実。自分の心の真実。自分の歴史の積み重ねのこと。それらひとつひとつをみつめ噛みしめること、感じること、そこから明日をみること、今・現在を正しく生き切ること、なにひとつ切り離さず、すべて自分の中に在るすべてをあるがままに感じて、あるがままの自分を生きること、それが悟る、ってことなんじゃないのかい?生きてる、ってことなんじゃないのかい?


切り離された自分が多ければ多いほど、この[わたし]は、生から隔てられる。生きているのに、生から遠ざかっていく。ユングはそのことを言っているのだと解釈している。

あなたは決して独りではありません。なぜなら諸世紀の眼があなたを見張っているからです。あなたはただちに、自分がかの老人の前にいることを感じ、諸世紀に対する自分の歴史的責任を感じます。

そうしてあなたが踏み出す「いま・ここ」における一歩は、百万年前から人類がたどりつくことを強く願った一歩だし、その一歩に、今まさに、あなたは立っているのだ。それは自分の人生における自分の歴史への責任であり、ひいては全人類への歴史に対する責任でもあるのだ。目の前のいまここにある自分の人生を生き切ることが、死んでいった人達やこれから生まれてくる人達、過去・未来みんなの人生を生き切ることにつながるのだよ。ふむ。

意味に縛られる人間

そして、「意味を怖れる人間」だ。人間ってのは自分で思っている以上に意味に縛られていると最近思う。「言語」に縛られているというよりは、「意味」に縛られている。意味のために生きようともすれば、死のうともする。自分の存在意義やオントロジー存在論)の問題がそこにあるからだ。(9.11のテロに走った盲信者どもを思い出すといい。)自我という一貫性を保たなければ、意味という一貫性を保たなければ、人間は、意識は、存在できない。それまでの自己の崩壊を怖れるがゆえに、それまでの自己の歴史を否定されてしまうことへの恐れがあるゆえに、つまり「変化を怖れる心」があるゆえに、なにかを信じ、信じる対象を創造するのだ。そうして創られた実在が、自我であると考えている。仮に自我の一貫性が破れるときがあるとすれば、それは狂気の瞬間か、はたまた転じて一種のサトリ?の訪れる瞬間だろう。色眼鏡が外れる瞬間だ。それまで通していた「自我」という現実のフィルターをはずす、又ははずさざるを得なくなったときだ。


そういう瞬間に身を置かざるをえなくなることがはたして幸福なのか、不幸なのかは、なんともいうことができない。


だって、そこにあるのは究極の「自由」であり、究極の「孤独」だから。


わかる?そこらへんのしみったれたクソガキどもが口にする孤独とは訳が違うんだ。

自分の全存在をかけて耐え忍ぶ、死ぬような覚悟で自己と格闘しているもののみが知る、真の孤独なんだ。

ひとつの極となる概念をみつけたら、その対極にある概念をみつけるようにすると学問理解は早く進む。
なぜなら世の中の物事っていうのは合い矛盾した裏表の両面で成り立っているから。


例えば性善説性悪説という考え方がある。はっきりいって善とか悪とか二元論的にしか捉えられてない時点でどっちもダサい。人間は天使にもなれれば悪魔にもなれる。


純粋すぎる正義は悪に通じるし、純粋なる悪はもはや正義にすらなりうる。両者が分裂し排斥しあうだけなら楽かもしれないがどちらもある意味愚かだ。天使は天使に潜む悪の側面を、悪魔は悪魔に潜む善の側面を、互いに認め合い共存しあう道を探していきたいと思うけど。物事を白か黒かで判断するのは、自分の怖れを否認したい願望にその本質的な理由がある。