悪人を倒せば世界が平和になるという映画は作らない――宮崎駿監督、映画哲学を語る


ITmedia(11月27日11時40分)



 『風の谷のナウシカ』『となりのトトロ』『千と千尋の神隠し』など数々の映画で、国内外から高い評価を受けている宮崎駿監督。アニメーション界の巨匠が何を思って映画を作っているのか、どんなことを憂いているのかを語った。

 「悪人をやっつければ世界が平和になるという映画は作りません」

 『風の谷のナウシカ』『もののけ姫』などのアニメーション映画を手掛けた宮崎駿監督が11月20日、東京・有楽町の日本外国特派員協会に登場し、講演を行った。

 『千と千尋の神隠し』が2003年にアカデミー賞長編アニメーション部門作品賞を獲得するなど、宮崎監督は海外でも評価が高い。内外から200人以上の記者が集まり、10分間の講演後には1時間以上も質問が投げかけられた。時には笑いながら、時には真剣な顔で宮崎監督は、最新作の『崖の上のポニョ』や現代社会に対する不安、自らの映画哲学などについて語った。

 以下、宮崎監督のメッセージをご紹介しよう。




●ポニョと同時に保育園も作った


 私たちが作った『(崖の上の)ポニョ』という作品は、実際にスタッフに子どもが生まれて、その子どもを見ているうちに、「この子が最初に見る映画として作ろう」ということで、それを自分たちのモチベーションにして作りました。

 今、私たちの社会は潜在的な不安に満ちています。私たちの職場(スタジオ・ジブリ)でも、それは同じです。自分のかわいい子どもたちにどんな未来が待っているかということについて、非常に大きな不安を親たちが持っています。それから、子どもをどういう風に育てたらいいのかということについても大きな不安を持っています。

 それで映画を作りながら、私たちはジブリで働いている人間のための保育園を作ってしまったのです。地方自治体から補助をもらうと、いろいろややこしいことがくっ付いてきますので、好きなことをやるために、まったく企業負担でやることにしました。

 (その保育園は)部屋の中に階段があったり、はしごがあったり、穴が空いていたり、それから伝統的な日本の畳や床の間や障子が入っているような不思議な建物です。庭には山や大きな石や、いかにもぶつかると痛そうな石の階段や砂の坂道や、それから落っこちそうな池があります。

 今年の4月から始めたのですが、子どもたちをそこに放つと、ハラハラドキドキ鳥肌が立つような恐怖を感じます。しかし、子どもたちは環境を利用して、敏しょうに転がって、泣きもしないのです。池の中に入って遊び、木の実を拾って食べ、はいながら砂の坂道を登り、滑り降り、本当に見事なものです。この保育園を作った結果、私たちは子どもの未来を不安に思うよりも、子どもたちの持っている能力に感嘆する毎日になりました。

 この国に立ち込めている不安や将来に対する悲観的な考え方は、実は子どもたちには全く関係ないことなのです。つまり、この国が一番やらないといけないことは、内部需要を拡大するための橋を造ったり、道路を造ったりすることではなく、この子どもたちのための環境を整えること。常識的な教育論や日本の政府が言っているようなくだらないようなことではなくて、ナショナリズムからも解放されて、もっと子どもたちの能力を信じて、その力を引き出す努力を日本が内部需要の拡大のためにやれば、この国は大した国になると信じてます。

 実際に子どもたちを取り巻いている環境は、私たちのアニメーションを含め、バーチャルなものだらけです。テレビもゲームもそれからメールもケータイもあるいはマンガも、つまり私たちがやっている仕事で子どもたちから力を奪いとっているのだと思います。これは私たちが抱えている大きな矛盾でして、「矛盾の中で何をするのか」をいつも自分たちに問い続けながら映画を作っています。でも同時にそういう子ども時代に1本だけ忘れられない映画を持つということも、また子どもたちにとっては幸せな体験なのではないかと思って、この仕事を今後も続けていきたいと思っています。



●地域社会をテーマにして



 10分ほどの講演後に設けられたQ&Aセッション。内外からの30人ほどの記者たちがさまざまな質問を宮崎監督に投げかけた。

――私はイングランドの田舎に実家があります。近所は農家で、子どもたちは昼間牛や羊の面倒をみるなどの仕事をしているが、夜にはあなたの映画を見る。彼らは現実世界とバーチャル世界を区別してないように思えるのですが、あなたは現実世界とバーチャル世界の違いについてどうお考えですか?

宮崎 今のお話はとてもいいお話で、私はとてもうれしかったのですが、私が先ほど話したのは、この国ではバランスが崩れているということなのです。実際に面倒をみる羊や家畜がいるわけではなく、裸足で走り回る地面を持たないで、バーチャルなものに取り囲まれているわけなんですね。その環境を変えるために、内部需要の拡大を図るべきだと私は思っています。

 子どもたちが字を覚える前に覚えなければいけないことがいくつかあって、これは石器時代からやってきたことです。自分で火をおこして、燃やし続けて消すことができる、水の性質を理解している、木に登れる、縄でものをくくれる、針と糸を使える、ナイフを使える。これだけは国が責任をもって子どもたちに字を教える前に教えなければいけないと思っています。

 本当は国がやらなくても両親や地域社会がやるべきなんですけど、地域社会をこの国は経済成長のために破壊してしまったので、それを時間をかけて取り戻さければならないと強く思ってます。

――仮想世界が現実に出てきたともいえる「三鷹の森ジブリ美術館」を造られましたが、ほかに何か造ろうと考えておられますか?

宮崎 私たちの経済力と密接な関係がありすぎて、予測することは不可能です。空想していることだけはいっぱいあるのですが、それができるかできないかはまだ分かりません。でも1つ、「地域の子どもが集まって来るような、親があんまり喜ばない駄菓子屋を作りたい」ということは考えています。

――子どもたちをナショナリズムから解放するということですが、今後は地域社会に根ざした映画を作るつもりか、グローバルな映画を作るつもりかどちらですか?

宮崎 「世界の問題は多民族にある」という考え方が根幹にあると思っています。ですから少なくとも自分たちは、悪人をやっつければ世界が平和になるという映画は作りません。

 「あらゆる問題は自分の内面や自分の属する社会や家族の中にもある」ということをいつも踏まえて映画を作らなければいけないと思っています。

 「自分の愛する街や愛する国が世界にとって良くないものになるという可能性をいつも持っているんだ」ということを、私たちはこの前の戦争の結果から学んだのですから、学んだことを忘れてはいけないと思っています。

――宮崎さんの映画には、環境問題について示唆する場面が多く登場しているように思えます。宮崎さんは日本の環境問題の現状について楽観的ですか、悲観的ですか?

宮崎 ものすごく悲観的ですね。その後に楽観的なものが来るだろうと思っていますけど。

 (環境問題については)とことんひどくなるまで学ばないだろうと思います。この国は生産するよりも、消費する方が多い国なんです。この国で生産できるものは3200万人までの人口しか養えません。残りの分は、自動車を作ったりアニメーションを作ったりして稼いでるわけなんですね。食料の自給率が低いとか、自分が着ている下着が全部中国製であるとか、そういうことがこの国の不安の根幹にあるんだと私は思っています。

 その構造を劇的に変えることは不可能ですから、少しずつ少しずつ変えようとしたら、随分長い年月がかかります。少しずつ変えていっても、現代の文明の終焉までに滑り込みセーフになるのかどうか、私はあまり自信がありません。ただ個人的には、自分と自分の周辺に関しては最大限の努力をしていくつもりです。

――日本の将来は悲観的ということですが、60年前の悲惨な状況から経済大国にまで成長したということを考えると、そんなに悲観的になる必要はないのではないでしょうか?

宮崎 経済の恩恵を得た結果、その次のステップに「どういう風に進むか」ということだと私は思います。次のステップに進む時に、大変多くの知恵と自制心がいるのだと思います。

 生産者であることと消費者であることは同時でなくてはいけないのに、私たちの社会はほとんどが消費者だけで占められてしまった。生産者も消費者の気分でいるというのが大きな問題だと思います。

 それは自分たちの職場で感じます。人を楽しませるために自分たちの職業で精いっぱい力を尽くすのではなく、それもやるけれど、ほとんどの時間は他人が作ったものを消費することによって楽しもうと思って生きていますね。

 それは僕のような年寄りから見ると、非常に不遜なことであるという風に、真面目に作れという風に、力を込めて作れという風に(感じ)、「すべてのものをそこ(作品)に注ぎ込め」と怒り狂っているわけです。だから全体的なモチベーションの低下がこの社会を覆っているんだと思います。



●海外の巨匠と比較



――最近日本ではアニメや漫画が「ソフトパワー」と言われてますが、この言葉をどう受け止めていますか。自分の映画はソフトパワーの一種だと思っていますか?

宮崎 スタジオの中で私たちは、「海では蒸気船はなくなりましたが、ディーゼル機関やタービンを持った船がいっぱい走り回っている。しかし、1隻ぐらいは帆船のままで航海してもいいのではないか」と話しています。(現代の経済観念である)ソフトパワーという言葉にくくられたくないと思っています。

――麻生首相がアニメ・漫画好きと公言されていますが、これをどうお考えになっていますか?

宮崎 恥ずかしいことだと思います。それはこっそりやればいいことです。

――ジブリでは手描きなどの技法を採用されています。ピクサーなどの海外のアニメーションスタジオの手法などはどうご覧になっていますか?

宮崎 私はピクサーの(ジョン・)ラセター※とは友人です。かなり深い関係の友人です。それから英国のアードマン(・アニメーションズ)のニック・パーク※※も友人です。彼らが努力して作った作品を見た時に、彼らの努力を一番理解できる人間だと思っています。彼らの努力や恐怖、恐怖というのは「この作品が受け入れられるのか、受け入れられないのか」という恐怖ですが、そういうことも含めて共有できます。

 私たちが鉛筆で描くことを、ラセターは喜ぶと思いますよ。「お前は絵を描けるんだから絵を描け」と前から言ってましたから。だから、そういう風に考えて、友人たちが作っている世界(を観ると)、いろんなところでそれぞれ頑張っているんだなあということです。

ジョン・ラセター……『トイ・ストーリー』シリーズの監督

※※ニック・パーク……『ウォレスとグルミット』シリーズの監督

――ウォルト・ディズニーと比較する意見についてどう思われますか?

宮崎 (ウォルト・ディズニーとは)違います。私はプロデューサーではありません。ウォルト・ディズニーは非常にすぐれたプロデューサーでした。それでウォルトナインズ※という非常にすぐれたアーティストたちと仕事をすることができた。彼らの無限な信頼を得ていた人間だと思いますね。

※ウォルトナインズ……ウォルト・ディズニー・スタジオで中心的な役割を果たしていたアニメーター9人のこと。ナイン・オールドメンとも言われる。

 ウォルト・ディズニーとウォルトナインズとの関係は、あの時代にしかありえなかったような非常に濃密な幸せな関係だったと思います。私たちは私たちなりに(そうした幸せな関係を)持っていますが、比較することはできません。1930年代にアニメーションを確立したという彼らの誇りと、それを使って商売をやってきたその後の人間たちとではずいぶん違うんだということです。



ユーゴスラビアの内戦が『紅の豚』のストーリーにも影響を与えた



――作品を作るときに、外国人でも共感できる要素を入れることは考慮していますか?

宮崎 実は何も分からないのです。私は自分の目の前にいる子どもたちに向かって映画を作ります。子どもたちが見えなくなってしまうときもあります。それで中年に向かって映画を作ってしまったりもします。

 自分たちのアニメーションが成り立ったのは、日本の人口が1億を超えたからです。日本国内でペイラインに達する可能性を持つようになったからなのですが、国際化というのはボーナスみたいなもので、私たちにとっていつも考えなければならないのは、日本の社会であり、日本にいる子どもたちであり、周りの子どもたちです。それをもっと徹底することによって、世界に通用するぐらいなある種の普遍性にたどり着けたら素晴らしい。

――宮崎さんの映画の舞台設定には、欧州、特に中欧や東欧を思い起こさせるものがあります。忙しいスケジュールの中で、世界中を旅する時間があるのかと心配しますが、舞台設定のアイデアはどういったところから思い付かれるのですか?

宮崎 (日本と欧州との間に)もし共通しているものがあるとしたら、人間の社会は似ているところがいっぱいあるんだということだと思うのです。私があえて日本の西の方の世界を中心にして映画を作っているのは、自分が旅行をして発見があったからです。

 東京というのは開拓村なんですね。日本の歴史で言えば、新しいところなんです。ひょっとすると今ここにいるところは海の上だったかもしれません。

 答えになっていませんかね(笑)。インタビューを受けるのは苦手ですけども、旅行は好きです。着てくる服装を制限するようなところには行きたくないです。

――実際に行った場所から影響を受けていますか?

宮崎 自分が行った場所には全部影響を受けています。行ってすぐ素晴らしいと思ってすぐ映画にしているわけではありません。何年も経ってから映画にしています。アイルランドも素晴らしかったし、エストニアも素晴らしかったし、英国も素晴らしかった。映画にしていませんがフランスに行ってとても素敵な体験をしましたし、クロアチアとかに行って映画を作ってみたいとか思ったり……いい加減なことを言ってすみません。

――クロアチアに実際に行っていないのに、どうやってそこを題材にした映画を作ったのですか?

宮崎 『ポルコ・ロッソ(紅の豚)』※でアドリア海を舞台にした時に、われらが主人公はクロアチアにある島のどこかに隠れ家を持っているように設定したのですが、見に行くことができませんので、航空写真を穴があくほどいっぱい見て勝手にやらせてもらいました。「違っているんじゃないかな」と内心困ってはいたんですけど。

※『紅の豚』……1920年代のイタリア・アドリア海を舞台とした、飛行艇を乗り回す「空賊(空中海賊)」と賞金稼ぎの「ブタ」の飛行艇乗りとの物語。

 ついでに申しますと、作っている時にユーゴスラビアで内戦が始まりまして、クロアチアの都市が砲撃されるということがありました。その結果、私たちの映画も長くなって、ちょっと重い内容を持つようになったのですが、今のようにクロアチアが平和になったのはとてもうれしいことです。(後編に続く)