かなり思いつきで思ったことを書きます。



人間はどうして「間違う」んだろう。



人間の脳・心ってのを、五感からの情報を処理する「情報処理機構」だと考えるなら、みんながみんな常に完璧な処理ができてもおかしくないのに。
いうなれば、人間っていう超・高度なコンピュータが60憶機も地球に存在するのに、そのどれもが同じ性能を持っていない。これって不思議じゃない?


考えられる要因としては

  • 遺伝子的な脳構造の差
  • もしくは本当は同程度の処理能力を持っているのにそこに違いを生み出す何かが存在する(もしくはその能力は眠っている)、ってこと。処理に違いを生み出すものがあるとすれば、おそらくそれは人間の「認知」だろう。認知の差が、処理の差を生みだすのではないか?


(つまり「認知の違い」が人間の多様性、とも言える。)


どちらもあるだろうけど、先天的な「遺伝子的な差」ですべてが決まる、という考え方は差別思想につながるから(アメリカにはそういうことを本気で考えてる学者も存在します!)、個人的には嫌い。個人的な希望としては後者であってほしいと思う。人の心は遺伝子レベルまで影響を及ぼす力があると思うしね。遺伝子ですべてが決められてたまるかよ。



無論、人間の脳はコンピュータじゃない。不合理な事でも人間は処理することができるから。合理的、効率的じゃないことでも人間は行える。それすら認知が違うからだろうけど。本人には正しいと認知されているから。(心理学的にはこれを「スキーマ=信念」っていう言い方します。スキーマは『認知』により形成されます)もちろん合理性や効率性が必ずしも良いとは限らないし、価値観は多様だ。人の数だけものさしが存在し、そのものさしの数だけ、人の喜びが存在する。人の数だけスキーマが存在し、スキーマの数だけ、喜びの種類がある。どんなスキーマに喜びを見出そうが、それはその人の勝手だけど。まぁ人間が人間たるゆえんだろうね。



話を戻すが、認知の差があって、個性が存在する。


これもきっと生物学的な必然から生じたものだろう。「種の保存」という目的の下の必然性。みんながみんな同じ処理しかしなかったら同じ行動しかしなくなって、一匹が滅ぶ時は種全体が滅ぶ、ってことだもんな。たまにはイレギュラーな認知をするやつがいた方がいいんじゃねぇ?ってことか。それゆえの認知の多様性。



でもこの解釈って何か悲しいなぁとも思う。


仮に生物学的な進化過程としては「真」だとしても、俺の人生でそれを知るってことが価値的だとは思えない。俺の個性って「種の保存」ってだけかぁ、みたいな。


だから「個性」っていう存在を人生を豊かにする概念にまで高めて、価値あるものにするのが、「哲学」の役割だと思う。それができてこそ「生きた哲学」っていうかね?それこそが「価値創造」なんだよ。



やはりね、正しいことを言うことだけが必ずしも正しい、とは限らない。自分の中で再確認。