病気と症状は違う 〜「病気」をどうとらえるか〜

臨床哲学の知 ~臨床としての精神病理学のために

臨床哲学の知 ~臨床としての精神病理学のために

木村敏氏は京都大学名誉教授、河合文化教育研究所主任研究員、だそうだ。
本書は、著者の臨床における経験、とりわけ統合失調症患者を中心とした話が主。ほか精神医学の臨床における話が読める。面白かった。
共感覚統合失調症などを通して、人間の認識についての考察が個人的に興味深い。


いまは、精神病になるのは脳が生科学的な変化を起こして例えばドーパミンを出し過ぎるからであって、それが幻覚や妄想を引き起こすんだといったと考えにとらわれている。精神医学も症状を消すことしか考えない。脳機能の研究自体は大切なのですが、それがもっと深いところにある心それ自体の病気の原因や病理の解明を妨げているとしたら、これは大問題でしょう。



家族や周囲の社会の迷惑をかけているのは症状です。病気そのもので迷惑をかけているわけではない。だから症状を除去することが周囲からの期待に応えることになる。症状が消えたら治ったということになる。精神医学が症状だけをみるというのも患者自身のことより周囲の社会の安全を考えるというのは、実は同じことの両面なんですね。


 わたしには非常に辛い記憶がひとつあります。薬をつかって症状をきれいに取ったら、その患者さんが自殺してしまったということがあるのです。症状を取られるということは、患者さんにとっては自己防衛手段を奪われることと同じですから、あとは自殺するしか仕方がなかったということなのだろうと思います。まだ若い頃の出来事ですが、そのときにこれはいけないと思いました。


症状はひとりでに消えるまでは無理にとってはいけないという考えは、そのとき以来、今もずっと変わりません。患者さんがあまりに興奮しては診察自体が成り立たないし、妄想や幻覚がひどいと患者さんの社会人としての評価に関わりますから、薬はそれなりにやはり使いますけれども、それで症状をきれいにとってしまおうなどということは全く考えません。風邪と同じで、症状は出す必要がなくなれば自然に無くなります。症状が出るのは、生きる力、病気と闘う力があることの証拠なのですね。


確かに、感覚遮断実験や、状況的危機下に陥ると人間は妄想で理性を保とうとすると聞く。統合失調症は、自己・あるいは自我の確立が困難になった状態であるといわれる。自我とは、五感から入った情報の一部に整合性を持たせることによる、あるリアリティとしてのシュミレーションなので、脳の器質的な障害でその機構が崩れると、通常の人間とは違うリアリティに臨場感を感じてしまう。=自我が崩れる、のだと私は解釈しているのだが…。

DSM成立の背景について 〜病因論の排除〜


現在、臨床で最も多く使われている病気の診断マニュアルがある。それがアメリカの精神医学会(APA)の作成した【DSM】(Dignostic and Statistical Manual of Mental Disorders)つまり「精神疾患の診断・統計のマニュアル」である。精神科医が診断を下す際に使用する指針として用いられている。


このDSMの特徴は、それぞれの病気にいくつかの症状が並べてあって、そのうちいくつ以上確認できたらその診断を下していいという基準を書いている点だ。


このマニュアルが作られた一番の要因は、統合失調症をまだ精神分裂病と言っていた時代のことになりますが、精神分裂病の診断が各国、あるいは各大学で随分違っていたという事情がありました。世界にはその国ごとに代表的な精神科医がいますから、それぞれの理論で精神分裂病と呼ぶものが違っていて、同じ英語圏でも、アメリカとイギリスでずいぶん違いがあったのですね。

そうすると何が困るかと言いますと、科学雑誌に、例えばこの病気にこの薬を使ったらこんな結果が出たという論文が載るわけですが、そもそもこの診断が違うと、実験結果自体の客観的な根拠が成り立たないわけですね。それでは困るということで、アメリカの人たちが統一診断基準を作ろうと考えた。アメリカという国は何でもかんでも客観主義ですからね。
 ところがね、そのマニュアルには病因論がいっさい入りませんでした。なぜかと言いますと、病因論には学者によっていろんな説があって、学者というのは容易に自説を撤回しませんから、病因論を入れると統一が取れないという事情があったからです。そこで統一をとるために症状を使おう、例えば十個の症状を並べて、そのうち何個が当てはまったらこう言う診断にしようと決めたわけです。


そういう具合で、病因論は一切排除しましたから、実質的に精神病理学を排除したということに等しいことになってしまった。すでにいったように、症状は病気ではなく病気に対する脳の反応に過ぎません。脳の変化だったら薬で消すことができる。結果として、病気を診ずに症状だけを診るという精神医学を助長してしまったのです。


こうなった裏には、実は製薬会社と医学会の関係もあります。今の製薬会社の大学や病院への売り込みは猛烈なもので、莫大な額のお金が動いていると思います。製薬会社が利益を求めて、こんな症状にはこの薬がよく効くという宣伝をして、その結果、症状だけで判断する診断基準作りを推し進めたという一面は否定できません。


現代人はおしなべて、「病気なった、じゃあ治そう、ハイ薬。」とすぐに病気=治療と考える癖がついている。社会的に薬崇拝ともいえる思考回路が染みついているとも言える。


本書によれば、つまりはそういう背景にはまず医学界における病気に対する診断の認識の転換があり、その根底は学術的な利便性からだった。(それがひいては病因の解明のためでもあるのだが…)加えてその傾向が製薬会社の利益と結びついて、病因そのものの解明よりかは「症状の除去」へと向かった、それが日本に輸入されて社会的に根付く、という流れがあったということになる。


ともあれ、「病気=症状ではない」という概念はなるほど、と思った。
『病気ってのは結局何なのだろう?』という疑問が最近頭にあったので。。。

病気と症状は違う。症状は、病気に対する対抗手段である。(※少なくとも外因性、心因性の病気において。内因性の病気だと器質的な障害、脳というハードの方の故障であるため、何とも言えない。)


ということは、だ。症状は、病気という変化に対する「適応」の過程であると考えていいだろう。ホメオスタシス。恒常性維持機能。
生体はあらゆる環境の変化に対しても適応する能力を持っている。暑ければ発汗で熱を発散して体温を維持する。寒ければ鳥肌で表面積を縮めて熱の発散を少なくする。目的は恒常性の維持、だ。それが適応の範囲を超えると、人はおそらく死ぬ。もしくは構造が破壊される。


やっぱり人生は「適応」「不適応」の連続であり、勝負だ。