私たちは『無の内側』にいる 『ユーザーイリュージョン / トールノーレットランダーシュ』

ユーザーイリュージョン―意識という幻想

ユーザーイリュージョン―意識という幻想

引用第2段。個人的に、ここが自分が一番引用したかった部分。もとい本書のトップ・オブ・ぶっとび箇所。笑



全宇宙の情報量をビット換算すると…?

現在の宇宙には非常に大くのエントロピーがある。宇宙を余すところなく記述するには、途方もない量の情報が必要とされる。なんといっても、熱力学の第二法則が150億年にわたって適用されてきたのだ。生み出された混沌は途方もない量であり、計算にあたっては、それをすべて考慮に入れなければならない。

 今日の宇宙のエントロピーを記述する整数、つまり宇宙のビット数は、1の後ろに0が88個ついた数(10^88)で表わされる。全宇宙をひとつのブラックホールに圧縮すると、エントロピーは幾分大きくなる。ビット数は1の後ろに0が120個つく数(10^120)で表わされる。だが、〈プランク時間〉(←※注 宇宙の始まりである、現在分かっている時間の最小単位)のエントロピーはどのくらいの大きさだったのだろうか。


この疑問は、1980年代の終りに提議された。答えは衝撃的だった。〈プランク時間〉には、熱力学の第二法則に従ってエントロピー生成され始めたばかりであることを念頭に置いたとしても、だ。(エントロピーを記述するのに、情報が必要となる)もしこの生まれたばかりの宇宙をブラックホールとみなすなら、そのエントロピー、すなわちそこに隠れた情報量は、1ビットに等しい。


この世界は、たった1ビットを使って記述しうるものから始まった。1ビットこそ世界が持っていた唯一の隠された情報だ。残りの無秩序は、後から現れた。

原理上、天文学者はなんとか最初の1ビットまでさかのぼって宇宙を記述できるが、それより先へは進めない。そこで諸法則が崩れるのだ。1ビットは、ある質問に対してイエスかノーか答えるのに十分な情報だ。だが質問を発するには十分ではない。

その質問とはなんだったのだろう。

1973年、アメリカの物理学者エドワードトライオンは、特異なアイデアを打ち出した。〈プランク時間〉に存在していたもののような微小な初期宇宙は無から生まれたかもしれない、というのだ。量子力学の法則の不確定性原理によると、ほんの一瞬だけならば微小なものが無から生まれることが、じつは許される、というのがその説明になる。生まれたものは、小さければ小さいほど長く存在することができる。


トライオンは、宇宙のすべてのもの――物質、エネルギー、重力、膨張率、そして中間の計算のいっさい――を足すと、実際には合計がゼロになるだろう、と指摘した。宇宙にある正と負のエネルギー量は等しい。物質の中にも、膨張によって引き起こされた物質の運動にも、等しいエネルギーが含まれている。あくまで厳密にいえば、万象の総和は無である。これは、いくつかの理論的仮説を前提としたものだが、1973年以降、それらの仮説は着々と裏付けを得ている。



トライオンの発想は、無はときとしてゆらぎのせいで、完全な宇宙になる、というものだった。きわめて微小な宇宙ではあるが、それが急激に膨張する。厳密に言うと、この宇宙は全体としてはゼロに過ぎない。だが、宇宙が永遠に存在するのなら、それがどうだというのだろう。


その後、宇宙論学者アレクサンダーが、宇宙は無から生まれた、というトライオンの理論を洗練した。そして今日、この理論はごく真剣に受け入れられている。量子力学から重力理論をどうやって導き出しうるかについての研究も、過去数年間、すべては完全なゼロであるという考え方に焦点を合わせている。

このように、トライオンの考えを真剣に受け入れる素地はできている。偶然のゆらぎのおかげで、すべてのものは無から生まれた。そして、急激に膨張して宇宙になった。その宇宙はゼロかもしれないが、逆に言えば永遠に続くことができる。無は永遠の中でゆらいでいる。

『飛躍、飛躍、飛躍!』

19世紀に、ドイツの哲学者G.W.Fヘーゲルは、有と無についての概念を提唱した。ヘーゲルはこう書いている。「生成とは、有が消失して無となり、無が消失して有となることである。」


「『始まりは無で始まる』――これは、単に言い方を変えただけで、一歩の前進にもなっていない。…『始まりはない』と『始まりは無で始まる』というのは、まったく同じことをいっているのであって、私を一歩でも先に進ませてはくれない」キルケゴールは、ただちに独自の見解を提示する。「絶対的な始まりについて語ったり夢見たりするかわりに、飛躍について語ってみてはどうだろうか」

飛躍! 『哲学的断片としての結びとしての非学問的あとがき』(1846年)の中で、キルケゴールは、量子的なゆらぎ、無の中のゆらぎ、〈量子飛躍〉として宇宙が始まったというトライオンとヴィレンキンの理論を――あくまでも後から振り返ってみればだが――先取りしている。

1938年、物理学者ペーデル・ヴェートマン・クリスティアセンは、ニールス・ボーアキルケゴールからインスピレーションを得て〈量子飛躍〉を定式化したのではないか、と示唆した。だが、宇宙論者たちがキルケゴールの著作を読んでいたとは思い難い。それに、キルケゴールがほのめかしていたのは物理的飛躍ではなく、意志の行為であり、実存による選択だった。キルケゴールの意見は概念的な分析であり、彼は「すべては無で始まった」という言葉からは何もうるところがない、と強調している。ほかの何で始まることができたというのか。それに、無を別にすれば、私たちはいったいと何と言い得たというのか。
とはいえ、「無から」の誕生という概念に結び付けて考えると、キルケゴールの見解には興味深いものがある。すべては無から始まったと言ったところで、ほんとうはいったい何になるのだろうか。無の中のゆらぎ、あるいは飛躍として始まったと言ったところで

そして『内側へ』。

 ひょっとすると、「無から」と言うより、「無の中で」と言ったほうが正確なのかもしれない。宇宙は無から誕生したのではない。無の内側で誕生した。すべては、内側から眺めると無だ。外側の世界は、内側から眺めると、じつは無である。私たちは無の内側にいる。
外側から眺めると、何もない。無だ。内側から眺めると、私たちが知っているものすべてがある。全宇宙が。

だが、無の内側に入ることが可能だと、どうして知ることができるのか、という質問が出てくるかもしれない。



理論的には、答えはしごく単純だ。私たちの周りに見えるものを全部足していくと、完全なゼロになるので、世界は無だ。その中に私たちが入ることができるかどうかという質問には、たいして意味がない。そう尋ねた時にはもう、私たちは答えを知っているからだ。

「我々の考えている世界など、我々の周りには存在しない」ジョン・ホイーラーは、量子力学からわかった事柄に照らして、人間が知っていることをそう要約した。ホイーラーに言わせれば、私たちは参与観察者だ。私たちの観察が、観察している宇宙の創造を助けている。ホイーラーの図(『ホイーラーのU』)には大きなUの字が描かれている。一方の縦棒には目があり、それがもう一方の縦棒を観察している。ホイーラーの発想は、別の言い方で表すことができる。


宇宙は、無が鏡に映る自分の姿を見た時に始まった。


物理学者フレッド・アラン・ウルフは、量子力学に関する著書に、シェイクスピアの『ハムレット』の有名な台詞をもじって、こう書いている。
「そこにあるのか、ないのか(To be,or not to be.)が疑問ではない。それは答えだ」


引用が長くなってしまったが、どうでしょうか?



自分はこれ読んだ夜、眠れなかったね。笑
「『無の内側!!やばー!!それだーっ!!』ってなって。


宇宙の誕生直後のプランク秒におけるエントロピー量は、1ビット。そこからすべてが始まった。その「1ビット」に、これを書いている「僕」という現象も、今これを読んでいる「君」という現象も、宇宙のすべての現象が収まっていたんだ。内包されていたんだ。
そしてあとはエントロピー増大則にしたがって、情報量が減少していった果ての世界が、最も抽象度の低い、最も具体的で。最も情報量の微小な、物理空間という世界なんだ。



苫米地英人氏の『抽象度』の概念が頭にあると、本書のエッセンスが驚くほどスッ、っと頭に入る。「物理空間と情報空間はつながっている」っていう概念ね。あれはね…情報理論の本質を表現した究極の言葉だ!


宇宙を理解するための最重要事項、それは情報理論ですわ。