『価値創造』と『ゲシュタルト』について

人間は、価値を創造する生き物である。一生の間で、人間は様々な価値を創り出しながら生きている。
例えば「木」を組み合わせて「はしご」をつくる。それをつかって人が上に上がる。単純だが、これも立派なひとつの生活の中に生まれた「価値」といえるだろう。



しかし、あえて逆説めいたことをいうならば、

『人間は価値を生み出すことしかできない』

ともいうことができる。




なぜなら、すべての要素・情報は宇宙に「すでに存在している」のだから、人間はそのもともとあった情報の断片を組み合わせて「在るもの」をつくりだすことしかできないのだ。


そう、まるで元から存在した「木」という要素を組み合わせて「はしご」という現象をつくりだしたように――。


これは『ゲシュタルト』の概念そのものだということができる。要は、『無限の存在する要素に、どのような文脈を見出すか、ということ』だからだ。

つまり文脈に沿って寄せ集められた要素の集合、それが現象、というだけなのであるが、大事なのはそれは絶対的な存在ではない、という事。文脈が変われば各要素はまた別の現象の要素になりうるのだ。そうして、世の現象という現象は移ろい、流れていく。変化こそがこの世の実相なのは、ウン千年前からの真理なのだ。


ゆっちまえば世界にあるものはすべて『ゲシュタルト』なのである。『空』なのである。(その代表例が「人間の意識」、だ!)


『個』を定義する要素、と言う名の『縁起』によって、現象は起こり、成り立っているのだ。


縁起が存在しなければ、要素はただの「情報」であり「空」なのである。(「空」と「縁起」は本質的に同じ概念。)


故に、人間は価値を創造することしかできない。





フフン、つまり人間は「宇宙にないものを創造すること」なんてできないのさ。

親から与えられたおもちゃで遊ぶことしかできない、生まれたての子供のように、ね。


人間は神になんてなれないのよ。(全知全能の、という意味での神だ)






しかし、本質的に人間は宇宙の情報すべてを潜在的に「知っている」ので、(経験したものしか認識できない、ってだけでね)

『人間は宇宙そのものでありうる』

ということができる。