『ドクター苫米地の新・福音書』

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確実にこの夏、いや、今年度のベストブック・オブ・ザ・イヤーといっても過言ではない一冊。向こう何年、この本のインパクトを超える本はないかも…。それほどの衝撃。

自我とは何か

「自分を定義してください」と言われたとする。
誕生日は〜年で、父の名前は〜、母の名前は〜、兄弟は〜、〜大学4年で、〜の会社に務めている、ペットは〜、今こういう服を着ている〜、妻は〜、ここういう家に住んでいる、…等々。やってみるとわかるが自分を定義するには、「他者」の存在がなければならない。われわれが自我がある、と思い込んでいるのは「だって今こうして『自分』を意識しているじゃん!」というだけの根拠しかないことに気づくはずだ。ではさらにその自分を定義づけた「他者」は何によって定義づけられるか?と来ると、やはりその他者もさらなる「他者」の存在によってしか定義づけることはできない。じゃあその「他者」は?それを定義づける他者は?……とやっていくと、やがて自我の定義のネットワークは環境すべてに広がり、ついには宇宙すべてに広がることになる。


すべては他の存在によって成り立っている。これは仏教でいう「縁起」思想である。「縁に依って起こる」。それを踏まえて苫米地氏は「自我は存在しない」とする。自分という「自我」は面積も質量も存在しない「点」であり、自分を定義づけた「他者」もその本質的な存在は同様に「点」である。われわれが「自我」や「自分」と呼んでいるのは『点と点を結ぶ線』の部分である、ということができる。他を認識するによって、自我が生じる、と言うこともできるだろう。


人間が五感を通じて、脳内、あるいは心の中で処理された「情報」が他者であり、自分である。認知科学の分野ではこれを「内部表現」という。今の自分は、今、脳とこころが処理した情報の内部表現にすぎなく、また今自分が認識している「縁起」そのものが今の「自我」である。宇宙はわれわれの認識によって成り立っている。というより、自我とは宇宙そのものだといえる。宇宙がいまこの瞬間の心にすっぽり収まってしまう。これは天台哲学の「一念三千」思想そのものである。
この本では「今の自我を変える方法」について色々論じている。その方法が、つまるところ今自分の認識している「縁起」を他の「縁起」に変えることによって『内部表現の書き換えを行う』というもので、そのための逆腹式呼吸や抽象思考などの方法論が展開されている。



われわれが朝起きて「自我が保たれている」と感じるのは、環境の「縁起」が保たれているからである。もし寝ている間に超高速で外国の見知らぬ部屋へ運ばれたら、自分が生まれ変わったと思うだろう。それと同じだ、と。
インド哲学では宇宙は連続的な存在ではなく、瞬間瞬間で新たに生み出される離散的な存在だと考えられている。いまの一瞬が一瞬で消滅すると同時に、一瞬にして次の瞬間が生み出されている、というのだ。その瞬間を「刹那瞬」という。つまり人は瞬間、瞬間、輪廻転生している。(瞬間、瞬間、自我=宇宙は生まれ変わっている)それを信じるならば、ひとは今この刹那瞬の瞬間で自分を変えられる、というわけ。



他にも、内部表現の書き換えを行うにあたって障害となる「ホメオスタシス同調」「ホメオスタシスフィードバック」(心理学の概念らしい)の概念もかなり興味深かった。っていうかこのこの考え方で今まで自分が疑問だったトピックも大体説明がつくな、と思った。やられた、と思った。笑


そして圧巻が150P以降(4章、5章)の展開。
ゲーデル不完全性定理や人間は自由意志を進化させた唯一の生物であること、われわれの認識している宇宙のさらに外側の存在を示唆して、自由意志とはグレゴリー・チャイティンゲーデルによるシステムSの外側に出ること!と持っていく。もう「はぁぁぁ〜〜〜……」ってぶっとばされたよ…。笑 感嘆、というか。。。
正真正銘の天才だわ、と思った。いままでどの本読んでも聞いたことねぇもの、こんな論理。宇宙の捉え方がぶっとんでる。しかもかなりの説得力。


ぜひ、読んでいただきたい。
しかも「新・福音書」なんて超・挑発的なタイトルつけちゃうあたり、らしいわぁ…笑、と思ってもう、惚れた。