チョムスキー言語理論と失語症患者の症状

脳にいどむ言語学 (岩波科学ライブラリー (59))

脳にいどむ言語学 (岩波科学ライブラリー (59))


幼児の言語獲得と失語症の言語崩壊のプロセスは正確な「鏡像関係」にある

今世紀に入り、言語学脳科学と関連付けた最初の言語学者ロマーン・ヤーコブソンであった。1941年に出版された『失語症言語学』という著書は、失語症状の本格的な言語学的分析として初めてのものであったり、その後の言葉脳の研究に大きな影響を及ぼした。
それによると、幼児の音素の獲得の順序、世界の諸言語に見られ音の分布、さらに失語症における音素の崩壊の順序は、お互いに関係があるという。たとえば、幼児は母語が何であれ[a][i][u][e][o]という順序で母語を獲得し、失語症患者はこれとは逆の順序で音を喪失するという。また、世界の言語の中で[a]を持たな言語はなく、また[e]や[o]をもつ言語はかならず[a][i][u]をもつという。


子音についても同様のことが言える。たとえば、幼児の言語では、摩擦音[f][s]が獲得される前には必ず閉鎖音[p][t]が獲得されており、獲得の初期には[f]は[p]に、[s]は[t]に間違って発音されることはあるが、その逆はないという。またこの世に閉鎖音のない言語はないが、オーストラリアやタスマニアには閉鎖音はあるが摩擦音のない言語があるという。さらに、フランス語の失語症では、[f]は[p](fou[fu:]「馬鹿」→[pu:])に、[s]は[t]に、[ch]は[k](chat「猫」→[ka])になるが、逆の誤りはないという。幼児の言語獲得と失語症の言語崩壊のプロセスが、正確な「鏡像関係」にあると主張した。

チョムスキー生成文法理論

そして1957年、ノオム・チョムスキーの「生成文法理論」が登場した。『文法の構造』と題して出版されたこの理論は、オートマンの計算能力に関する緻密なモデルに基づくものであり、その中には言語能力、言語の創造性、文法の厳密な定義といった、現代理論言語学の基礎となる重要な概念が披露されている。



生成文法理論は、文法が私たちの言葉の使用を可能にしていると考える。言うまでもなく、この場合の文法とは外国語の文法のように誰かから教わるものではなく、受験のために参考書に書いてある文法でもない。人間なら誰でも5歳くらいまでにはかならず身につけてしまうと思われる、「母語の文法」のことをいう。


チョムスキーは、人間には「言語機能」という、種に固有な能力が生得的に備わっていて、それが人がことばを獲得することを可能にしていると考えた。私たちが日常ことばを話したり理解することができるのは、ことばについての知識、すなわち母語の文法があるからだと捉え、これを「言語能力」と呼んだ。さらに話したり聞いたり読んだり書いたりという行為を「言語運用」と呼び、これら二つは概念上異なるものと仮定した。


チョムスキーは一貫して、言語学は心理学、さらには生物学の下位領域であると主張し続けている。

失語症研究へのインパク

脳科学の領域で、生成文法理論の影響を最初に受けたのは、失語症の研究であった。1970年代の研究者は、「言語能力」と「言語運用」という概念上の区別をさまざまな失語症の症状に当てはめてみた。その結果、失語症では「言語運用」は失われているが、「言語能力」は保たれているのではないかと考えた。しかし、唯一の例外として、ことばについての行為全般にわたって障害があらわれている「失文法失語患者」では、「言語能力」はどうなっているのだろうという疑問がわき起こり、以降さまざまな形で、文法の障害が注目を集めることになる。



1980年、生成文法理論のパラダイムに大きな転換が起こった。それまで英語や日本語などの、いわゆる個別言語の文法として捉えられていた言語現象の多くが、「普遍文法」に内在する「原理とパラメーター」によって、直接説明されるようになった。

 「普遍文法」とは、子供がことばを獲得するためにもって生まれた能力のことで、有限個の原理から成り立つ文法の属性の集合と考える。ここの原理には、それぞれにパラメーター値(可変部)がついており、子供は誕生後、その値を周囲の環境に合わせて設定するだけで、母語が獲得されるという仕組みである。


このように、理論がより精緻化し、抽象化が進み、脳の認知システム理論としての体裁が着実に整えられていったことは、脳と言葉をあつかう失語症の研究者に大きなインパクトを与えた。言語障害の性質を、文の組立てを決めるXバー原理、文の文法性を保証する格原理θ原理、文の解釈にかかわる束縛原理といった「普遍文法」に含まれる原理と、それらに付随しているパラメータ値の保持や喪失という用語で説明する試みがなされた。そして、それをもとにして、健常な人のもつことばの構造や使用の仕組みを探ろうという動きがあらわれてきた。



この動きの先導者が、現在アメリカ、ボストンのマサチューセッツ総合病院言語学者でありかつ神経学者でもあるデイヴィッド・カプランであった。それまでの失言症研究は、言語学の専門的な訓練受ける機会のない臨床家によって進められており、一般に「神経言語学」という曖昧な名称で呼ばれていたが、言語理論を踏まえた失語症研究は、彼によって「言語学失語症」と名づけられ、その後に発展する「ブレインサイエンスとしての言語学」への橋渡しをすることになる。

「普遍文法」

さて、ここまで読んだ読者の中には既お気づきの方もいると思うが、生成文法理論は、日本語や英語やヘブライ語といった、個々の言語の文法を探ることが目標ではない。どの言語の文法にも共通する普遍的な特徴とはどのようなものなのか、を明らかにしようとしてきたのである。この、普遍的な部分に関する理論を「普遍文法」(Universal Grammar)略してUGと呼ぶ。したがって、普遍文法は、個別言語の文法とはレベルを異にする、より抽象度の進んだ理論である。



 生物学の立場から見ると、ヒトは生後一定期間に触れた言語であれば、それがどの言語であっても、母語として獲得することができるのだから、それを可能にするなんらかの仕組みが脳の中にあると考えるのは自然の成り行きである。また、ヒトの脳は、何語を獲得するかによってその解剖学的構造が大きく異なるはずはないのだから、ヒト言語システムを支える、言語に共通した普遍的な特徴があると考えるのは、理にかなっているといえよう。さらにいえば、初期の脳の個体発生は、遺伝子プログラムに沿ってその大部分が行われるのだから、母語の獲得を可能にするプログラムが、ヒト遺伝子の中に含まれていると考えるのは、まったくありもしない空想ともいえないだろう。実は、最近その可能性を示唆する証拠が欧米で報告されている。



ではいったい、普遍文法の中身とはどのようなものなのだろうか。前にも述べたが、現在「原理とパラメータのアプローチ」と呼ばれるアプローチが、多くの研究者に受け入れられている。この方法では、普遍文法を有限個の原理からなる体系として捉え、その原理の中には、パラメータを含むものがあると考える。



 具体的には、これまで見てきたのですでにおわかりだろう。分の組み立てをつかさどるXバー原理はその中のひとつであり、主要部のパラメーターはXバー原理についているパラメーターである。また、文の操作に関する原理には、a移動(項と非項への移動、主要部移動)とそれに対する制約である「下接の条件」が含まれる。さらに、文の認可については、格原理と格フィルター、それに名詞句への意味役割の付与に関する原理(θ原理)がある。格原理とは、主格、対格、与格などの文法格がどのように付与されるかを規定し、格フィルターとは格のない名詞句を排除する役目をもつ、文の文法性を認可する原理である。θ原理は、名詞句と動詞の意味役割が一対一対応になることを規定している。そのほかに、本書では取り上げなかったが、音形をもたない要素の認可についての空範疇原理、文の解釈にかかわる束縛原理やコントロールの原理がある。

人のことばの成り立ちを生物学のコンテクストの中に置くことは、言語学の領域では長い間タブーだった。今でもそう思っている言語学者はたくさんいると思う。しかし、これまでみてきた私たちの言葉についての仕組みが、まさしく脳の産物であることは間違いない。ヒトのことばは、その記号的構造の豊かさと、抽象性に富む複雑さにおいて、他の生物に類例を見ない。ヒトがことばをもつきっかけになった要因はいくつかあると考えられているが、そのうちの一つ大脳の発達であるといわれている。

言葉がうまく話せない

失語症とは、通常、脳出血および脳梗塞のような脳血管障害、また脳腫瘍、交通事故による外傷により、局所的に脳が損傷され、その結果言語機能が破壊され、話すことや理解することが難しくなってしまう症状である。その際に、脳のどの部分が障害されるかによってことばの様子もかなり異なってくる。以降、筆者の経験した症例だけでないので申し訳ないが、失語症患者の具体的な発話を見てみよう。




・NHさん。当時57歳の右利きの男性、脳梗塞によりブローカ領域を含む前頭葉のかなり広範囲に損傷がある。発症後2年8か月経過。右上下肢麻痺。やや音の歪みがある。()内は筆者の発話。

あのねー… えー… とうりょう り りかっていう会社なんですよ。…あのー あのー うー うっ… なご なごや… えー なん あのー なのや なごや営業所長なんですね。…でね あのー…でね あの…中区のね あの つるめーっって (鶴舞?)ええ…あのーそこにねー (会社があった) ええ。…あのー あのー …八時ごろから しゅっきん しゅっきんす[る]んで…(中略)


話はつっかえつっかえであり、たいへんな努力をしている。「あのー」と言った後、なかなか言葉が出ずにつまってしまうことが多い。しかし相手の言うことはよく理解できている、と本人がいう。

外国人の日本語?

次の例も、12年ほど前に筆者が同じ病院で紹介されたYYさんとの会話のごく一部。当時30歳の右利きの女性。同じくブローカ領域を含む広範囲の高速。筆者と同じ年齢だったため、友人同士のようなくだけた内容になってしまった。



あの 私 あの 毎日 どーしよう どーしよう できない。話 できない。弱いねー。お金 ない。あの…(外で働くこともできないわねー。)んー あ 赤ちゃん 好きよ。むずかし。お金と…ねー (お金がないと) 心配。んー いろいろ。お母さん お父さん 「あー 困ったー 困ったー」(中略)赤ちゃん できない しん しん (心配で?)うん ねー。赤ちゃん、ねー あの 生まれ…欲しいね。私 困るよ、ねー。(お金がないと心配で赤ちゃんも生めないのね。)お父さん お母さん お金 だらしない。主人 やさしいよ、お金 だらしない。 もしね、パッパッパッパ 三人 パッパッパッパ あー 心配 心配 私 話 できない。 私 嫁 できない。


この人も相手の話はよく理解している。しかしHN氏とは異なり、病巣が広い割には発症直後から語音も明瞭で、普通に話をしていたらしい。唯一おかしなことと言えば、日本語があまり流暢ではない外国人が話すような話し方をしていた。いわゆる「てにをは」が抜け落ちていて、名詞、動詞、形容詞、形容動詞を羅列する。一つの文の長さが短い、典型的な「失文法発話」である。本人もこれに気づいていて、助詞がうまく使えないから、習うために宿題を出して欲しいという。
臨床家がこの患者は「失文法」であると診断するとき、その基準となるのが「てにをわ」の脱落であるといわれている。

話がかみ合わない

次は岩手で報告されていっる症例。右利きの61歳男性患者HO氏。交通事故による頭部打撲で左側頭葉外側部の脳挫傷により、ウェルニケ失語を発症。患者と検査者の病室での会話の一部



(ここはどこですか?)ここ? ここは、あの、医者じゃなくてー、東京、東京都第一でしょ。
(ここは何階ですか?)そう言われると困るんだけど、あのいつもちゃんと、何ていいますか…
(ここから外が見えますね。)僕は、これ行く前は、よくあそこ行くの。毎日毎日、えーと、ちょくちょく、一週、うーんと、ひと月、…ひと月どのくらい行ってたかなー。それで、それであのー、一日食べて、そして…

先程の、ブローカ失語のNH氏とは対照的な患者である。岩田の報告ではこの型の話し方はきわめて滑らかであり、語音は明瞭で、抑揚もきわめて自然であるという。またYYさんとは対照的に、文の組立てには問題がない。しかし、ことばの理解力がきわめて悪く、適切な語が使われていない。内容が混乱して、会話によるコミュニケーションは成立していない。


他にも、本書では「新語をつくる」「ことわざや比喩がわからない」などの失語症状を実際の会話で示している。そしてこれらの症状の違いの原因を言語理論と脳科学、遺伝的観点から見ていく。



要は、失語症の症状は言語理論でいえば「言語運用」の部分の障害であり、「言語運用」は助詞のとりあつかいや、ことばのインプット(理解)、アウトプット(発話)…等々、いくつかの要素から成り立っており、各要素をつかさどる領域が脳の構造的にも、遺伝子の部分においても、両者において決まっているのではないかと考えることができる。これをモジュール性(領域固有性)という。
したがって、損傷したモジュールの部位によって、失語症の症状の多様性が生まれているのではないか、ということである。逆にいえば、失語症の症状の多様性はモジュールの多様性を裏付けることであり、ことばは脳の中で複雑なその要素の連動によってはじめて成り立っている、ということができる。



まだ断定できない部分は多々あるようであるが、研究が進むに合わせて脳科学言語学双方の理論の妥当性が相互に証明されていっているようである。脳科学の発展はチョムスキー生成文法の妥当性を裏付け、逆に言語学の発展が脳科学の発展につながる、という学問のクロスオーヴァーというか、フィードバック関係が起きているところが非常に興味深い。脳科学言語学は今一番興味ある分野なので、この本はジャストミートで入った。あまりに「おぉ」と思いすぎて引用しまくってしまった。引用した部分はまたこの先、読み直したいとの意もこめて。敬意を持って、引用させていただきます。
言語学、相当おもろそうだ。