人の心は合理的思考を超越できるのか

20世紀を動かした五つの大定理

20世紀を動かした五つの大定理

人間の限界、機械の限界

 ゲーデルの定理が示しているのは、合理性に富むどんな形式的体系も不完全であり、しかもそのような体系の矛盾は、その体系自身の内部では証明できない、ということだった。さらにチューリングの業績からわかるのは、形式的体系と機械とが、与えられた仮定から論理的に有効な結論を導く際に実行する内容の点では、等価だということである。したがって、コンピュータはゲーデルが任意の形式的体系に与えたのと同じ制限を受ける。



1989年、理論物理学ロジャー・ペンローズは「皇帝の新しい心(The Emperor`s New Mind)」という本を出した。この本の議論の中心は人の心というものは合理的思考を超越することができ、それゆえ機械の中で人の心を複製することは決してできない、というものである。先に注意しておくが、演繹的推論の過程で結果にたどりつくために規則やアルゴリズムに従うという意味で、合理的思考、という言葉を使っている。ここでいう合理性とは、利己的とか倹約的とかを意味する日常的で経済的な解釈と何の関係もない。この本でペンローズが主張したのは、少なくとも人間の思考過程のいくつかは、どんな種類の規則にも従う必要がない、ということだった。人間の意識と知性を成立させる根本要因を、理論的には脳内部の量子過程に求め、この主張を正当化したのである。それが主張するところは、『人間の心なら知ることができるが、一定の規則の集合(すなわちコンピュータプログラム)からは演繹できない、算術の真の言明が存在する』ということだ。



ペンローズらの論拠の核心は、次の思考のプロセスを取っている。
不完全で無矛盾な形式的体系の外側に立つことによって、真だが証明できない言明が存在することを人間が認識できる点を、ゲーデルの結果は暗に示している。しかし、機械はこの事実を証明することができない。したがって、あらゆる機械に対して、そのような真だが証明できない言明が存在するので、人間はどんな機械よりも優れている。さらに、もし人間の心が形式的体系以外の何物でもないのなら、ゲーデルの第二定理によって、人の心は事故の無矛盾性を証明できないことになろう。しかし、人間は自らの無矛盾性を断言している。したがって、人の心は機械以上の存在でなければならない。と。



しかし、このことが明らかであると言うのは程遠い。
たとえばポール・べナセラフは、彼らの機械に対する見方が狭すぎると指摘している。自己を再プログラムできる機械は、すべてゲーデルの議論から除かれるからだ。さらに、彼らが人の心を無矛盾と仮定している点も注目している。



彼らの主張に対抗する他の考えは、彼がゲーデルの定理を誤って適用している、というものだ。
たとえば、ゲーデルの定理が証明しているのは機械Mが、その公理と推論規則によってMのゲーデル文を証明できない、というだけである。だが人間の心も、少なくとも機械が利用できる公理や推論規則を使うなら、やはりゲーデル文を証明できない。さらにどんな機械にも欠陥があることが示されておらず、ただ機械技師が現実に作れる機械(※将来誕生する機械にまで彼らの分析は進んでいないということ)にだけ欠陥があることを示したにすぎない。


定理証明機械が存在する可能性

最後に心と機械と人工知能に関する以上の議論を締めくくるにあたり、ゲーデル自身がこの点について何といっていたか、興味深く耳を傾けることにしよう。

 人間の心(知性)は、その数学的直観のすべてを公式化する(または機械化する)ことができません。すなわち、もし数学的直観のいくつかを公式化することに成功したとすれば、まさにそのことが新たな直観的知識を生むのです。たとえば、その形式化自体の無矛盾性といったものです。この事実は、数学の『不完全性可能性』と呼べるかもしれません。他方において、これまで証明されてきたことに基づき、次の可能性が残されています。それは、事実上数学的直観と等価ではあるがそうであると証明もできず、有限数論の正しい定理だけを生じると証明することさえもできない、定理証明機械が存在する(そして経験的に発見さえできる)かもしれない、という可能性です。


こうしてゲーデルは、定理証明機械が存在する可能性を残しておき、そのような機械が経験的な探索によって発見可能かもしれないことさえ認めている。すなわち、その能力が人間の数学的直観に匹敵するが、そのプログラムを決して私たちが理解しえない機械が存在しうる、とゲーデルは述べているのだ。今は理解しえないとはいうものの、たとえば進化によって、そのような機械が存在する条件を提案できるかもしれない。したがって、複雑すぎて設計できない機械といえども、それでも存在する可能性はあるのだ。


…打ち疲れました。笑
「引用にもほどがあるよな」と思いながらキー打ってました。笑


いやしかし面白いっ。はたして人間は証明外の「真」なる存在に気づくことができるのか。
「ある与えられた系の公理内では証明できない言明が存在する」という不完全性定理を、人間であるゲーデルが気付いた、というのが面白いところで。そのこと自体ががそもそも人間が理性を超越する瞬間がまれに存在することの証拠であるんでしょうな。(アインシュタイン相対性理論、等しかり。個人的に日蓮の仏法思想も同様の理性の超越があるような気がする)それがいったいどうしてそんなことが可能になるのかはさっぱりですが。まぁ自分にそれはまず不可能だろうけれども。笑


それが機械においても可能になるか、は「人工知能が作れるか」ということにも通じる問題で、これからの技術、学問の進歩にまかせるのみとしか言いようがない、と。苫米地氏なんかは「人工知能は作れると信じている(それが認知科学者の立場でもある)」と言っているけど。


「人間の認識」への興味は尽きない…。