人間が「無限」を数えれるのは言語が「無限」を孕んでいるから?

[rakuten:book:11213651:detail]


良い本でした。他の本と合わせて読んでいたのもあって、随分読み切るのに時間がかかってしまった。しかもなかなかに興味深い内容だったのでもはや「精読」って感じだったw 


まず、訳者による序文、が素晴らしい。これだけで独立した読み物として成立する出来だと思う。言語理論の基本的な理解と、今後の展望がかなりわかりやすく書かれている。ありがてぇ。


1979年と、2002年に行われたチョムスキーの2本のインタビューを収録している。前者「生成文法の企て」は言語学における革命的な概念である「原理・パラメータモデル」が誕生する直前に行われたもの。原理・パラメータモデルというのは、後に「Xバー理論」として結実される句構造に関する一般原理。この原理は、様々な範疇の間の並行性や、異なる言語における句構造の一般性をきれいに捉えることができる、とのこと。


例えば、人間の幼児にとって生まれてから約6〜12歳までがクリティカルエイジ(言語を覚えれる生理的限界期間)と言われているが、この間に幼児の脳内では何が起こっているのか?それは、その子の環境で話されている母語を聴いて、その聴こえてくる文法構造に、脳内の文法パラメーターを調節して合わせているというのである。日本語であれば主語、述語、目的語が「SOV」になるように調節し、英語であれば「SVO」、といった具合に。つまり人間の「言語機能」というのはあらゆる言語に対応できる言語の本質的な構造である。これがあるから人間はどんな環境に生まれてもその国の言葉を覚えることができる。この事を極めて妥当的に説明できるのがチョムスキーによる「生成文法」の概念である。



「言語機能」の構造は一体どうなっているのかということを探ることはそのまま、人間の心(mind)を探ることに通じる。
河合隼雄によると他の生物と人間の違いは3つ、

  • 家族を持つこと
  • 直立歩行であること
  • 言葉を話すこと

であるという。特に「直立歩行であること」と「言葉を持つこと」は密接な関わりがあると考えられる。個人的な推測でもあるのだが、人間の可能性のすべては「直立二足歩行」から始まっているような気がしてならない。その大きな特徴のひとつである「言語」を探る、という意味において、言語学とは「人間とは何か」を探究する学問であるといえるだろう。


以下、引用していきたい。



 言語が持つ様々な特性を詳細に分析し、また言語獲得に関する諸事実を考えることによって、生成文法は、人間の脳内には自律したシステムとして「言語機能」と呼ばれる心的器官が存在するという仮説に到達し、その言語機能の内実を明らかにすることを目標に掲げた。言語機能の「自律性」には、この認知モジュールが他の認知システムからは予測できない独自のメカニズム(のみ)で成り立っている、という「強い」解釈と、言語機能を成り立たせている個々の構成要素やメカニズムは他の認知システムとの汎用性を持つかもしれないが、それらを纏めあげて「言語用」に独立したひとつのシステムとしてこのモジュールが存在している、とする「弱い」解釈がある。
なお、後者の解釈においても、言語機能内部にそれ独自の、他の認知システムには見られないようなメカニズムが存在する可能性は否定されていない。

言語機能とは、言語以外の目的のために用いられるかもしれない様々な要素およびメカニズムをまとめあげて、全体として言語専用の認知システムとして機能している心的器官である、とするのが今述べた、「弱い」解釈である。この解釈は、もう少し目に見える形で存在している「音声器官」という身体器官を考えてみればそのイメージを掴みやすいかもしれない。
 言語音声の産出に関わる、気管、喉頭、声帯、咽頭、舌、歯、唇などの諸器官は全体としてひとつのシステムを成し、お互いに連動し合いながら複雑な言語音の産出を可能にしているが、これらの部位のどれひとつ取ってみても(声帯の役割は今ひとつ定かではないが)言語のみに特化した部位はなく、全て他の用途のために独立にその存在が要請されるものばかりである。結局のところ「音声器官」とは、呼吸器官や咀嚼器官の既存の器官(の一部)が二次的に利用され、言語(音声の産出)のためにまとめ上げられて成立するに至った身体器官であるということができよう。(主に)脳内で同様のことが起こって成立したのが言語機能という心的器官であると考えることは、まったくの無理筋とも言えないように思う。




さて、そうであるならば、このことは言語機能の進化・発生にどのような意味合いを持つだろうか。
ある用途のために発達した器官が進化の過程で一定の形式(大きさ、形)に達した時に、何か別の用途のためにツ使われ始め、いったんその新しい用途のために使われ始めると、いわゆる「自然選択(natural selection)」のプロセスが働いて、さらにその形状を(新たな用途にとって最適な形に向けて)変化させることがある、という事実が進化生物学では報告されている。


チョムスキーは、同様のことが人間の高次精神機能をつかさどる「心的器官」の発生に関しても生じたのではないかと推測する。


具体的な例として彼が挙げているのは、数を数える能力自然数の概念)である。


この能力を仮に「数機能」と呼ぶことにすると、数機能はすべての人間に生得的に備わっているように見える。この能力が「使われていない」文化も存在するが、そういう文化で育った大人でも適切な環境に置かれると自然数の概念を理解し、数を数えることができるようになるし、数機能が(社会的に)用いられていない文化集団出身の子供でも、工業化社会に移ればその社会出身の子供と同じように数機能を用い(て技術者や物理学者などになる)ることができる。数機能は、それが実際に使用されるか否かに関わらず、全ての人間に備わった認知機能のようである。

 数機能の本質は、ペアノの公理によって明確に示されているように、ある基本的な要素(例えば1)に基本的演算(例えば加法)を繰り返し施すことによって、無限の生成力を持つことにある。
これを「離散無限」と呼ぶが、離散無限の概念(それを可能にするメカニズム)がすべての人間に生物学的に組み込まれているがゆえに、数を習っている子供が、ある数nまで1、2、3…nと習っても、そこで「自然数」が終りになるのではなく、どのようなnに対しても必ずn+1が存在することを無意識に想定し、「自然数の無限性」を自然に受け入れるのである。そして、この種の離散無限性を示す「(自然)数」の概念は、どうやら人間に固有の特性のようである。(1から例えば17まで「数え」られる能力と、任意の自然数nが与えられたとき、常にn+1という新しい自然数を作ることができる能力は、全く別の能力である)

 それでは、数機能はどのようにして人間(の脳内)に発生してきたのだろうか。この機能が人類の歴史の中で顕在化してきたのがごく最近のことであることなどを考慮すると、数機能が自然選択によって発生したとはどうにも考えづらい。数を数えたり自然数の概念を理解できる人間がそうでない人間よりも子孫を残しやすく、その結果、数機能が自然選択によって発達してきた、ともどうも考えにくい。自然選択による説明が原理的に不可能であるというのではないが、今のところ、自然選択を用いての数機能の発生に関する説明には説得力が欠けているように思える。



そこでチョムスキーは「数機能は何か別の認知機能の副産物なのではないか」という仮説を提示する。それではその「何か別の認知能力」とは何かというと、それは言語機能である。
前に、数機能の本質的特性は離散無限性であると述べたが、言語機能もまさにこの離散無限の特性を有している。どの自然言語を見ても必ず、文の長さを原理的に無限に長くできるメカニズムが備わっている。その上、有限でもなく、連続(的無限)でもなく、離散無限であるというこの特性は、どうやら人間のみが有していて、かつ、言語機能と数機能にのみ現われているように見える。


そうであるならば、離散無限性を中核とする言語機能が発生した段階で、離散無限性を可能にするメカニズムのみを抽出し、言語に固有な他の諸特性(言語が概念と音を結びつけるシステムであることに由来する諸特性)を捨象する形で数機能が脳内に形成され、外的条件が整えば使用可能な状態で潜伏していたと考えることは、決して無理ではないように思われる。もしこの説明が正しければ、これはある目的のために発生したメカニズムを他の目的に転用することによってひとつの「心的器官」(数機能)が発生した例であることになる。

 では言語機能そのものはどのようにして発生したのか。
これに関しては、現段階では数機能の発生に関して今述べた程度の「説明」さえ与えることができない。数機能と違い、言語機能の本質が何であるかが現時点では細部までわかっているとは言い難いからである。
そうはいっても、過去半世紀近くに及ぶ経験的研究の積み重ねによって生成文法はかなりの程度「言語機能の本質」のようなものに迫ってきており、言語機能の進化や発生に関するいかなる学説も、生成文法が発見してきた言語機能の諸特性を考慮に入れなければ、およそ空疎な仮説となってしまうであろう。


そう、なぜ言語が生まれたかはわかってないんだよ。人間が人間になったのはなんらかの必然からなのか、まったくの偶然によるものなのか。


長い間木の上で暮らしてきたチンパンジーが、「なんらかの理由」によってそれができなくなって、地上に下りて、二本足で立ちあがリ始める。種の保存という目的にまったくもって反する二足歩行を、だよ。(詳しくは僕の進化論・人類学のカテゴリーを参照!)


その人間が言葉を喋りはじめる。
この一連の流れは自分の中で必然的な流れだったんじゃないかと思うわけ。
ここはひとつ、「なんらかの理由」によって『不本意にも二本足で立たざるを得なくなった』と考えて、必然的に生じてくる種の絶滅という危機を乗り越えるために、「言葉」が必要だったんじゃないか、と。とは言ってもいきなり言語が生じるには無理があるので、それはおそらくいくつかの段階を踏んだはず。それは簡単で、原始的な「感情」だったんじゃないだろうか。まぁ真相は検証しようもないので、これ以上述べるのはやめますが。
ただ『不本意にも二本足で立たざるを得なくなった』原因としてはウィルス進化論が一番解釈としては筋が通る。超低確率で発症するウィルスがチンパンジーに発症して、それが脳の構造を劇的に肥大化させて、それによって生物的構造が変化してしまった、ってね。仲間からそんな話を聞いたことがあります。そのウィルスっていうのは研究禁止なんだぜ、ってね。(真偽の程は定かじゃありません。)
そんなことも思ったり思わなかったりね。



言語機能が解明されたら、言語がどうして発生したのかも分かる日がくるんだろうか。