チョムスキーインタビュー 〜進化、二元論、パラメータ〜

生成文法の企て

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昨日、引用できなかった分のつづき。

言語学の観点による類人猿と人間の進化上の決定的相違

チョムスキー:人間の言語機能と類人猿の脳に存在するものとの間にはほとんど類似性がないだろう、という信念を支えている理由はもっと別のところにあるような気がしています。種の保存のために極めて有益で貴重な生物学的能力、すなわち、自然選択上の明らかな価値をもった能力が潜伏したままで使用されていないなどということは、ほとんどあり得ないことですよ。もし事実だとしたら、本当に驚きです。

(中略)つまり、この能力は今まで一度として使用されたこともなく、また選択されることもなかったのに、一体どのようにして発達してきたのかという問題です。言語機能のような能力が何らかの選択圧もなしに進化してきたなどと信じる理由は全くありません。

チョムスキー:明らかに、人間は存在する他のどんな有機体とも根本的に異なっています。これについては疑問をさしはさむ余地は全くないと思います。例えば、人間が歴史を持っている唯一の有機体であることは明らかです。歴史という概念は、他の有機体には存在しません。他の有機体においては、(本当に取るに足らないような点を除いては)生物学的変化以外の変化というものは存在しないのです。人間には、このことは全く当てはまりません。



 さて問題は、この事実が一体どのような要因と関係があるかということですが、私はこの違いが幅広い思考を表現できる能力の存在と関係があると想定するのが理にかなったことだと思います。思考に必要となる基本要素はおそらく原始的なもので、他の動物にも利用可能かもしれません。つまり、例えば知覚による範疇化や物体認識の能力などが多くの有機体にも共通しているという可能性は十分にあります。どのような生物でも、だいたい同じような知覚世界を持ち、同じような問題に対処している。ですから個体化や叙述など多くの概念が、種を超えて(同一とはいかないまでも)関連を持っていても不思議ではないのです。


ということは、人間以外の種には、何かが欠けていることになる。それは一体何なのか。私は、人間以外の種に欠けているものは言語機能の計算的側面ではないか、と思います。


例えば、デイヴ・プリマックの研究から得られたと思われる結果にこういうものがあります。彼はどうやら二つの領域で行き詰ってしまったらしい。一つは言語で、もう一つは数機能だった。彼は類人猿に数を用いて何かをやらせることが全くできなかった。


これはいささか興味深いことです。というのも、(中略)どちらの場合にも、回帰的規則を用いて離散無限を扱うような機能が関与しているのです。そのおかげで、一方では数機能が発生し、もう一方では、他の諸原則と相俟って無限の数の言語表現を作り出すことができる能力が生じたわけです。そしてこの言語能力が、より原始的かもしれない概念システムと結びついた時、自由な思考を産み出す能力を構成するのに不可欠な要素が得られることになるのです。これが(生物界における)人間の独自性を生じさせたのかもしれません。

概念形成能力があれば、知覚したり、範疇化を行ったり、記号化したり、おそらくは単純な推論を行うことさえできるでしょう。しかし、この概念システムが真に強力なものとなるのは、計算能力と結びついた場合にのみなのです。人間の進化の過程において最も重要な一歩だったのは、もともとは全く別々に進化してきた二つのものがたまたま偶然にも、驚くほど実り豊かな形で相互作用しあうようになったことなんじゃないかと思うんです。一方には、概念システムの基本的な要素があった。例えば、物体認識や近くの恒常性といったものや、さらにもう少し進んで、計画を立てたり、他の有機体の意図を理解したりする能力です。このような概念システムは、部分的には他の霊長類にも共有されているかもしれない類のシステムです。


 さてここで、ある説明がつかない理由によって、計算能力が発生したと考えてみてください。おそらくは、脳の大きさが変化したことか何かが原因で起こったことなのでしょうが。もちろん、このような計算能力の一部はすでにずっと人間の歴史を通して潜伏していたもので、例えば自然数の諸特性を理解するような能力がそれにあたります。この能力は、自然選択によって生じたものではあり得ません。なぜならそれは、人間がほぼ現在の状態に進化するまでは、決して顕在化しなかったからです。この計算能力は、単に何らかの理由で発言したと言うしかないのですが、その理由とは、もしかしたら、論理形式や、統語構造を無限に形成する能力と関わりがあるのかもしれません。そしてこの能力が概念システムと結びついた時に、人間言語ができ、これによって思考や計画、評価などを無限の範囲にわたって行う能力が得られ、完全に新しい生物ができあがったのです。




(中略)類人猿に関する研究の中には、ある種の記号化に関する能力のうち少なくとも初歩的なものは類人猿にも存在しているかに見えるような研究もあります。しかし、類人猿に完全に欠如していると思われるものは、計算装置の類なんですね。このことは、概念能力が概ね口を塞がれているということを意味します。概念能力は、もしかしたら存在しているのかもしれないが、(計算能力が欠如しているために)ほとんど役に立たないということかもしれません。


まず概念能力(知覚世界)が先に存在 →そこへ人間に(何らかの理由により)計算能力もしくは数機能が発生 →両者が相互作用することにより元々あった概念形成能力が強化されて初めて表現されるにいたった →言語の発生?



二元論という考え方について

チョムスキー:我々が今やっていることが二元論へ繋がっていくことは全くありませんが、逆に二元論を反証するようなこともありません。
心についての議論というのは、脳内のある物理システムの諸特性について、適度に抽象化したレベルで述べているのにすぎないと理解すればいいんです。ですから、心についての議論というのは、プログラムやコンピュータについての議論が二元論でないのと同様に、本来的に二元論であるということにはならないんじゃないかと思います。「心の内に、そして究極的には脳の内に」などという表現を使っているのも、心について論じているのだから二元論を支持しているのだ、などと想定されるのを避けたいからなんです。その反対の考え方を採っているわけでもないんです。つまり一元論を支持しているのでもありません。もしかすると、心というものが存在してしかもそれは独立した実体である、ということになるかもしれません。



―――――でもそれならば、「心あるいは脳」あるいは「心・脳」というような表現の方が「心・究極的には脳」というよりもいいんじゃないんでしょうか。この文脈で「究極的に」というのがどういう意味なのか依然としてはっきりしないんですが。



チョムスキー:そうですね、おそらくは内心では二元論などはあり得ないと仮定しているからでしょうね。その理由は、もうすでに正しい物理学が原理的には出来上がっているからか、あるいは心的現象をも扱えるような、もっと豊かな物理学が将来構築されるべきだからでしょう。もしこれら二つのうちいずれかが正しいならば、心について語ることはあるレベルにおいて脳について語ることと同じである、ということになります。類推を用いると、あるレベルにおいては、惑星の軌道について語ることと物理的実体について語ることが同じになるのとちょうど一緒です。

『心についての議論というのは、プログラムやコンピュータについての議論が二元論でないのと同様に、本来的に二元論であるということにはならないんじゃないかと思います』というのは確かに納得できるところがある。プログラムやコンピュータは演算の世界。数字というのは、ある意味、存在をかなり高度に抽象化したものといえるだろう。
とすれば数字で表現される世界があるということは(情報空間)、元々の抽象化された物理空間にそれを換言、もとい還元できる余地があるとも言える。脳というのが物理空間的に記述される世界なら、心はもしかしたら情報空間的に記述される世界なのかもしれない。つまり、心は脳をより抽象化した世界、解釈に過ぎないと考えることができる。しかし、これだけで心という独立した機構が存在する可能性を否定することはまだできないのも事実。そういう意味でチョムスキーは一科学者としての慎重さは忘れていない。



パラメータの存在理由

チョムスキー:なぜパラメータがそもそも存在するのかという質問をされましたが、そのことは、全ての個別言語にある意味等しくコストがかかるべきなのか、という問題と関わっているのです。ベイカーが彼の著書の中でこの問題を提議していたと思いますが、彼もこの問題は未解決のままにしています。この問題にどう答えるかは私にもわかりません。私に唯一考えられる答えは(かすかな見込みがあるに過ぎませんが)、パラメータに関するある種のミニマックス問題が関与しているのではないかというものです。ある個別言語、あるいは言語システムがパラメータを多く持てば持つほど、その言語の獲得はより困難になります。もし全てが日本語だったら、簡単だったんでしょうがね。一方、(もし本当にすべてが日本語だったら)遺伝的部分には大きな負担をかけることになります。なぜなら、パラメータに対応するものではなく、そのパラメータの値までも含むようなたくさんの情報を提供しなくてはいけなくなるからです。
従って、おそらく次のような二つの相反する要因に関して、最適な数を得るようなある点が存在するのでしょう。ひとつは、遺伝的にあまり大きな負担を課さないこと。そしてもう一つは、言語獲得の仕事に過重な負担を課さないことです。
このことが、パラメータが必要とされる理由なのかもしれません。いつか将来、こういったことが成り立つということを示せる人が現れるかもしれませんね。


要はコストパフォーマンスの問題ですな。あまりに具体的で抽象度の低すぎる情報を脳に搭載しすぎても、今度は脳がぶっ壊れちゃうよ、と。
だから十分な情報量があって、かつ脳内のコストパフォーマンスも妥当な値に落ち着くのが、現在の言語学で示されているパラメータ値なんでしょう。
やはり生物というのは、できるだけ「節約」しようとする傾向にある、といえる。なんとも経済的。