数学的な美と、言語理論の微妙な差

生成文法の企て

生成文法の企て


さらに、引用のつづき。Part3。

美しい理論とは一体何なのか

―――(中略)時として数学上の結果は、それが真でないはずがないほど美しいので、問題がある、あるいは理論と矛盾するようなデータをとりあえず脇に置いておいても、その数学的理論を固守することが正当であるようです。しかし、言語学においては分野の全面的数学化が依然として成し遂げられていません。(中略)これは、有限の離散システムであるという事実から生じる本質的問題として、人間言語が広範囲にわたる数学の適用を、いわば内在的に拒んでいるということなのでしょうか。それとも、真の数学化を必要とするほど、人間言語に関する経験的な研究がまだ十分に蓄積されていないせいなのでしょうか。



チョムスキー:そうですね、これは美しい理論とは何かという問題と関わっています。ある理論に美しい数学が備わっていれば、科学者は満足します。そして実際、あなた方も指摘したように真でないはずがないほど理論が美しいという理由で、色々な事実を捨ててしまうことさえあります。これがどういうことなのか、誰にもわかりません。しかし、科学者がそうしているのは事実です。実際のところ、美しい結果をもたらしそうであれば、よく理解できないような数学でさえ、科学者というのは使ってみたりするものです。



―――でも、こういったことの底には何かがあるのではないでしょうか。



チョムスキー:ええ、そこに何かがあるのは明らかです。これは科学では常に問われ続けている類の問題です。すなわち、一体どうして自然は数学の諸法則を満たすのかという問題ですね。これは非常に不明確な問題です。一種のカント風の回答も可能かもしれません。つまり、我々の心そのものが数学の諸原理によって動いていて、自然のある側面が我々の心に適合する限りにおいて、我々はそれを理解するのだ、ということです。従って、自然が数学の諸原理を満たしているというのではなく、数学の諸原理を満たしている自然の側面のみが我々に理解可能なのだ、ということになります。我々には理解不可能でも、火星人になら理解可能なような自然の側面がたくさんあるのかもしれません。



―――このことは、数学に対する、ある種の直観主義的アプローチを思い起こさせませんか。数学は人間の認知能力の一部を反映しているものだ、というわけですから。



チョムスキー:ある特定の種類の数学は認知能力の一部ですね。もし自然が人間の心に適合するなら、ある程度はそれを理解することができます。しかし、自然には心に適合しないようなものが存在するかもしれませんし、もしそういったものが存在するとしたら、自然のその部分は我々には理解できないのです。実際、問われることのないような問題を考えてみれば、このことは全く驚きでも何でもないのです。ニュートンデカルトガリレオ等の人達にとって基本的であったような諸問題のうちのほとんどの問題は、もはや誰も問うことすらしません。そういった問題は解決されたのではなく、ただ問われなくなっただけです。今やこういった問題は、科学の研究対象から外されてしまっています。



―――それならば、なぜ数学は人間言語の研究に関しては、それほど圧倒的な力を持っていないように見えるのでしょうか。




チョムスキー:数学は何に関してもそんなに大した力は持っていませんよ。生物学にも数学はありません。化学においてさえありません。もちろん、数学は使われてはいますが、少なくとも私の知る限り、ここで議論されているような意味において使われているのではありません。



(中略)



―――数学と言語学とには、今まで話してきたようなことに加えて、もう少し内在的な結びつきもあるのではないでしょうか。言語機能と「数機能」(数を数える能力、自然数の概念)は同じ回帰的メカニズムを共有しており、もしかしたら、人間の進化過程においてこの二つの認知能力は同じ「ルーツ」を持つのかもしれない、とあなたは指摘しています。もしそうならば、なぜUGは数論のようにならないのでしょうか。あるいは逆に、なぜ数論はUGのようにならないのでしょうか。言語機能と「数機能」の決定的な違いは何なのでしょう。




チョムスキー:そうですね、この質問はイメージングの研究から答えが得られるような類のものかもしれません。例えば、言語能力と数を数える能力に関して、脳の同じ部位が関与しているのかどうかを発見できればおもしろいでしょうね。決定的な答えを出すことにはならないでしょうが、何か示唆するものがあるかもしれません。
このことに関して有望な考え方というのは次のようなものだとも思います。数機能と言語機能は両方とも人間に固有のものであるように思えますし、回帰的(帰納的)枚挙、デジタルな無限性という共通の特性を備えています。これは推測ですが、この奇妙な有機体(人間)は、まず言語機能を得て、さらにある種の抽象化を行う能力を持っていたものですから、それを用いて言語特有の特性を全て切り捨てて、枚挙可能性の原理のみに集中した。こうして得られたものが、基本的に算術(自然数の概念)です。これが正しければ、いかにして神が人間を創り、他の数は人間が作ったかというよく知られている直観の背後にあるものが理解できることになります。



―――クロネッカーの有名な言葉ですね。



チョムスキー:ええ、そうです。でも一方では、失語症に関するいくつかの研究がこういった考えについて疑いをはさむことになるのかもしれません。なぜなら、得意性の障害がどうも存在するように見受けられるからです。例えば、言語は失ったけれども、数は残っているような例が、あるいはその逆の場合などが、存在するらしい。もし言語機能と数機能が同じものから抽象されたのであれば、どうしてそんなことが起こるのか考えづらいですよね。

脳科学について

チョムスキー脳科学は魅力的ですし、極めて重要な分野になるであろうことは間違いありませんが、私の知る限り、現段階に置いては一般理論の内容は乏しいですね。この分野は、1920年代における物理学よりも、もっとずっと未発達です。
脳科学が正しいものを見ているのかどうかさえ誰にもわかりません。脳にはあらゆる類の得体のしれないものが働いていて、脳の中に何があるかなんて誰にもわからないんですよ。ですから、ただ研究を続けて、何が出てくるか見るしかありません。


 このことは、まともな認知神経学者達にはずいぶん前から理解されていたんです。40年前に、ハンスールーカス・テューバーは、ここMITで、後に脳科学認知科学プログラムとなった部門の主任でした。彼の確か1960年ころに私にも他の人々にも大きな影響を与えた、重要なレビューを書きました。その論文の冒頭で、「知覚と神経科学に関するレヴューを、『知覚がなんであるかわかりません』と始めて、『脳とはどのようなものかよくわかりません』と言って終わるのは奇妙に見えるかもしれません。でもそれが事実なんです。」というようなことを言っています。それでは、脳を研究する意義はどこにあるのでしょう。テューバーは、脳研究の意義とは、脳の研究が究極的に科学になるため、そして知覚の研究が究極的にもっとまともな科学になるための指針を提供していくことだと言っています。我々にできるのはそこまでです。研究できるものを研究し、そしてその研究が、闇をさまよっている人達に何らかの指針を与えることを願うのみです。

ちなみにこの記事で引用したテキストのインタビューは、2002年秋に行われた方のもの。いま2008年なので、新しい知見が見つかっている可能性もあるので、そのつもりで。