『情報』は環境そのものの中に潜在的に、無限に存在する。 〜アフォーダンス理論〜

アフォーダンス-新しい認知の理論 (岩波科学ライブラリー (12))

アフォーダンス-新しい認知の理論 (岩波科学ライブラリー (12))


アフォーダンス理論』とはジェームス・ギブソンというアメリカの知覚心理学者によって1960年に完成されたもの。
すごく大雑把に言うと、


「情報とは環境に【潜在的に】備わっているものであり、そこには対立・矛盾する概念も含めたすべての情報が、あらかじめ【無限に】内包されている。生体は必要な情報を【検索】にかけ、そこから個々に情報を取り出しているに過ぎない」という考え方。


初期の認知科学においては、情報というのは、環境から刺激を入力し、それを中枢(脳)でどんどん加工されることで初めて意味のあるものになされる、と考えられていた。つまり、【意味は「こころ」によって処理され、つくられる】という考え方だ。
 しかし、認知科学の進歩により人工知能の開発が進むにつれ、『フレーム問題』という情報処理の問題が出てきた。これは、ゆっちまえば状況状況にあわせた判断を行うほどの柔軟性をコンピューター処理に持たせるのは、困難。という問題である。人間にはそれができるが、コンピュータだとすべての判断をアルゴリズミカルに行っちゃうので、それがすべて終わるまで行動しないのだ。(うーんなんて説明したらいいかわからん。)


まぁとにかく、その問題のとっかかりになりそうな理論として、ギブソンの死後1980年代に入って、アフォーダンスは「人工知能の設計原理」「人と機械のコミュニケーション」について研究している認知科学者に注目されているようだ。



私たちが知覚しているのは「変形と不変」である。世界の持続と変化、という性質である。環境に満ちているのは「持続と変化」である。「エンバイロメント」とは私たちを「円く囲むもの」を意味する。生態光学はそこが「情報に満ちた海」であることを示した。



初期の認知科学の中心理論、認知の「情報処理モデル」では、人間は環境から刺激を入力し、それを中枢で加工することで意味のあるものにすると考えていた。「情報」は刺激が頭の中で加工された結果と考えられてきたわけである。ギブソンの理論は「生態学的認識論」と呼ばれるが、それは情報処理モデルとまっこうから対立している。生態学的認識論は、情報は人間の内部にではなく、人間の周囲にあると考える。知覚は情報を直接手に入れる活動であり、脳の中で情報を間接的に作り出すことではない。私たちが認識のためにしていることは、自身を包囲している環境に情報を「探索」することなのである。環境は、加工されなければ意味を持たない「刺激」のあるところではなく、それ自体で意味を持つ「持続と変化」という「情報」の存在するところとして書き換えることができる。

情報は光の中にある

環境の「持続」する性質は「面の配置」として知覚される。(知覚心理学でいう、きめの勾配、などのこと)
そして環境の「変化」という性質も、面やその配置の変化に表わされる。
面の変化から「季節」や「昼夜」が知覚できる。また対象の多様な動き(移動、変位、衝突など)が知覚される。
環境の「持続」と「変化」は私たちを包囲する、光の中にある情報に埋め込まれている。

自己

私たちを包囲する光の構造には、じつはもう一つの重要な情報がある。それは観察者地震についての情報である。
見えの変化は、自己の姿勢や移動の方向、速度や加速度の情報にもなる。このように環境の知覚が自己の知覚でもあるということは、視覚に限られない。音の聞こえは、音源に対する自分の頭の傾きや、音源と自分との距離の情報ともなる。物を触ることは、触っている自分の手や皮膚の状態についても知らせてくれる。食物を味わうことは唇や舌の動き知覚でもあり、もっといえば味に表現されている自身の身体の調子を「味わう」ことでもある。


このような環境を知覚することと自己を知覚することの「相補性」についてはあ1980年代の後半から、若きギブソニアン(ギブソンの弟子ら)によって具体的な研究が開始されている。
例えば、カエルの知覚には、カエル自身の身体のサイズが決定的な役割を果たしている。カエルは、前方の植物の茎の間などの隙間が自身の頭部の幅の1.3倍以上ないと飛び出さないことが知られている。カマキリは自分の前肢幅で捕まえることのできる大きさの獲物が手の長さの範囲内に来たときだけ捕獲動作を開始する。

身体の大きさが見えを決定している。
それは人間でもそうである。「手を使わずに座れる椅子の高さ」は座る人の脚の長さの0.9倍だが、それは1.07倍のところを境目に大きく変わる。「またぐ」と「くぐる」も同じ。
 ただ、実際には身体の大きさだけが知覚の基準を提供しているわけではあるまい。脚の長さよりも全身の柔軟性のほうが、より適切な「登れる最大の段の高さ」の基準となることを示した研究もある。

そして、アフォーダンスである。「すり抜けられる隙間」「登れる段」「つかめる距離」はアフォーダンスである。アフォーダンスとは環境が動物に提供する「価値」のことである。アフォーダンスとは良いものであれ、悪いものであれ、環境が動物に与えるために備えているものである。
アフォード(afford)は「〜ができる」「〜を与える」等の意味を持つ動詞であるが、英語にアフォーダンス(affordance)という名刺はない。アフォーダンスギブソンの造語である。


物体、物質、場所、事象、他の動物、そして人工物など環境にあるすべてのものはアフォーダンスを持つ。動物ならばそれらにアフォーダンスを探索することができる。環境にあるものは、すべてアフォーダンスの用語で記述することができる。


たとえば、紙である。部屋の中からどのようなものでもよい、一枚の紙を見つけていただきたい。


その紙はあなたの手で破れるだろうか?ふつう紙は、破ることをアフォードしている。しかし、紙が「厚いダンボールの小さな切れ端」ならば破ることをアフォードしないだろう。つまり、破れないと知覚されるだろう。ただし、読者の手や腕が運動選手のような特別な筋力を持っていれば別で、ダンボールの切片でも「破れる」と知覚されるはずだ。



その紙でこの本をすっぽりと包めるだろうか?これは紙の大きさと厚さと、あなたの包装スキルに依存する。あなたが包装の経験が豊富なデパートの店員ならば、ぎりぎりの大きさの紙でも本を包むことをアフォードしたはずだ。その紙を丸めた時に、どれくらい遠くまで飛ぶだろうか?ゴミ箱まで届くだろうか?これは紙の重さと丸め方と投げ方に関連している…


キリがないのでこれくらいにしておこう。すべてその紙のアフォーダンスである。紙でなくともよい。一本の棒、一個の器を見て、触れて、爪ではじいて音を聞いて見ていただきたい。紙に発見したように、多くのアフォーダンスがそこには発見できる。同じものを見ても、人によって異なるアフォーダンスが知覚される。また、知覚する動物の種が異なればアフォーダンスがまったく重ならない場合もあるだろう。たとえばゾウとアリが一本の木に知覚するアフォーダンスはかなり異なるはずだ。

従って、環境の中のすべてのものにアフォーダンスは「無限」に存在することになる。


さて、環境をぐるりと観察してほしい。すべては読者に何かをアフォードしているはずである。床はそこに立つことを、あるいはあるくことをアフォードしている。壁はあなたの姿や声を外の世界から隠すことをアフォードしている。椅子は座ることをアフォードするようにつくられている。すべての道具は、何か特定のことをアフォードするようにつくられている。



アフォーダンスをピックアップすることは、ほとんど自覚なしに行われる。したがって、環境の中にあるものが無限のアフォーダンスを内包していることに普通は気付かない。しかし、環境は潜在的な可能性の海であり、私たちはそこに価値を発見し続けている。



アフォーダンスの誤解。アフォーダンスは刺激ではない

アフォーダンスの意味はよく誤解される。
誤解の第一は、アフォーダンスは反射や反応を引き起こす「刺激」ではないかという誤解である。これは明確に違う。アフォーダンスは反射を引き起こす刺激のように、不可避にある行為を引き出さない。また本来無意味な刺激が、ある過程を経て意味を獲得した「記号」(パブロフの犬の条件刺激としてのベルを思い起こして欲しい)でもない。アフォーダンスは特定の反応と対にして提示される必要はない。椅子は座るという行為と対にされなくとも「座る」アフォーダンスを最初から持っている。アフォーダンスは刺激ではなく「情報」である。動物は情報に反応するのではなく、情報を環境に「探索」し、ピックアップしているのである。


また探索は、常に間違う可能性をもっている。アフォーダンスは、刺激のように「押しつけられる」のではなく、知覚者が「獲得し」、「発見」するものなのである。


第二はアフォーダンスとは知覚者が内的に持つ「印象」や「知識」のような主観的なものだろうという誤解。
知覚者の主観が知覚されることの価値を決定していることを認めてしまうと、価値になんら実体がないことになる。価値は知覚者の欲求で勝手に変化してしまうことになる。ある物質が食べられるかどうかということは、動物の食欲によって変化してしまう。しかし、言うまでもなく「食べられるか、食べられないか」という物質の性質は食欲とは関係がない。そして空腹であろうが、満腹であろうが「食べられる物」というアフォーダンスは動物によって知覚されるのである。疲れていようが元気だろうが、椅子はすわることをアフォーダンスしている。


アフォーダンスは環境のなかにある

ギブソンアフォーダンス「動物との関係として定義される環境の性質」であるとしたが、それが環境の取り方によって、そのつど出現したり、焼失したりするものと考えないように、と注意した。アフォーダンスが環境の中に実在することを強調する彼の論理が、「エコロジカル・リアリズム(生態学実在論)」と呼ばれるゆえんである。

アフォーダンス理論で自分が特に感心したのは

  • 生体が主体的に価値を見つけていること、を発見したこと
  • またその探索される価値は、主体者の検索レベルにかかっていること
  • アフォーダンスを、【生体と環境の間に定義される環境の性質】と定義していること(これは仏教の「空・縁起思想」そのもの。)

要は一言で言うと、
「価値がないんじゃないの、あんたが見つけられてないだけなのよ〜」

ということになる。


例えばグーグルで検索をかける時に、こちらの知識量が多ければそれだけ検索して得られる情報量は広がるようなもの。
ホントはけっこう膨大な情報が転がっているのに、それを検索する術を知らないようなね。
(※注:別にグーグルはそこまですごいものではないけどね。あれはグーグル側でネットワーク上に転がってる情報を自動で集めるプログラムがあるのであって、我々はそのグーグルが収集した情報しか検索にかけることはできない。)



えー、もっと実用的な喩えとしては、目の前に人間がいるとしましょう。
その人間が世界に対してアフォードする情報は無限です。


「おまえなんて無意味な人間だ!」という人が仮にいたとしても、それはダメ人間のアフォーダンスしか見つけられないその主体者の責任、ということになるだけ…、といった具合に応用可能かと。その人間は、有意味と無意味の両方の可能性を併せ持っている。



量子力学の「重ね合わせ」にも通じるものがある。シュレディンガーの猫よろしく、箱の中の猫は「生きてもいるし、死んでもいる」。
要はこちらがどちらの状態を実際に「観測」するか、だ。


未来は観測することによって確定する、主体によって観測されるまでは、無限の未来が重なり合ってどの未来も実現しうる可能性は持っているのだ。
だから、観測した瞬間、ある意味「未来は叶っている」と僕は個人的に(かつ勝手に)解釈しているんだけどね…




まぁただし現実のダメ人間が「一瞬で決意して」天才に生まれ変わるには若干のタイムラグがありそう、…っつうか時間はかかるだろうけどね。(でも長い目では実現していると思う)




…価値はあなたに「見つけてもらう」ことを待っているのだ。