再開。


ながらくぶりでございます!久々の更新。


3月、充電期間を経まして、祖母の葬式等もありつつ、今年より八王子某大学の院生として臨床心理学を研究することに相成りました。よってこのブログの研究ぶりはかなりそっちよりになっていくことが予想されますが、かといって心理に縛られる気もさらさらないし、あくまで「リベラル」に、やっていこうという思いは変わりません。


俺は「生きるために勉強している」わけだからね。勉強するために生きてるわけではない、と。というか、人生が勉強そのものだ。知らないこと、知りたい事はまだまだあるし、やんなきゃいけねぇ。


最近の思いとして、あくまで現実の中や関係性の中で(つまり【社会】)で役立ってこそ、価値を発揮してこそ、知識は意味がある。最近はそういう思いが強くなってきている。何かを生み出す「専門性」が欲しい、という思い。何かを生み出すには何かに特化しなければならない。ダ・ヴィンチなんかはそのほぼすべてに特化してしまったという意味で、やはり天才だ。


しかしかたや自己修養や自己の哲学の構築という意味においても、すべての学問をやることにはちゃんと価値はある。さまざまな角度、側面の見方を学ぶことによって、世界の理解の仕方はぐんと深まっていく。これはやった人にはわかる。体系的な学問をやることは、ある意味一番のその近道であると思う。2000年かけて人類が到達してきたことを、2000年かけずに一足飛びに理解できるというのだから、これをやらない手はない。


「知識」はいくらでも転がっている。しかし鍛えなくちゃならないのは、それに付いていくだけの自分の『頭脳』の方だ。


問題はここだ。知識は得ようと思えばいくらでも、得れる。要はその人が「知ろうとしているか、いないか」の違いだけだから。


しかし、頭脳。知識の「使い方」の方、こればっかりはもしかしたら才能で差がつく場合もあるかもしれない。「人間の取扱い説明書があれば…」と思うが、残念ながらそんなものはない。それは自分で開発して、見つけていかなくちゃいけない。まぁ近しいものとして論理学あたりをやればいいのかもしれないが…。まぁどちらにせよ自分で頭をフル駆動して、意識して使っていく必要がある。


誰かを頼っちゃいけない。『自らを灯として』、その目、その足で歩いていくんだ。
それがいつの時代もあるべき人間の姿だ。