利他に生きなければならない理由を発見した

人間は、もはや「理屈でこれこれこう〜だから利他の生き方をする」のではなく、利己の生き方は他人を壊し、自分をも最終的には不幸にする論理である。

よって、理屈抜きで、その論理は捨てねばならない。自分を幸福にするために、自分と他人を幸福にする「新たな論理」を選択しなければならないのだ。
それが利他の論理である。

利己と利他。この二つはまったく異なる論理体系である。ゆえに相容れるということがないため「利己の論理」の範疇にいながらにして「なぜ利他の生き方をしなければいけないか」といくら思いあぐねたところで答えは出ない。否、出しようがないのだ。だって始まりの前提が全く違う論理体系だから。


「利己の論理」の大前提、いわば【公理】は何かというと「自己保全」。
「利他の論理」の【公理】は、「奉仕」である。


前提として置く【公理】がまったく異なるのだから、相容れない論理であるのは当然だ。両者は両者を打ち負かすことができない。だって全然違う論理なんだから。「おれのものはおれのもの、おまえのものはおれのもの」と言い張るジャイアンを、のびたは言い負かすことができない。(多分。)



どちらの論理が正しいとか間違ってるとか、そういう幼稚な論争はどうでもいい。社会の中で生きる我々はどちらの論理も選択することができる。しかし、逆に言えば社会という関係性の中で生きねばならない我々には、「選択せねばならない」論理が確かに存在するのだ。「奉仕の行為がなぜ正しいのか」とか論議する行為は、もはや無意味である。奉仕というその一点から始まる、それを喜びとする論理体系を、我々は「選択」しなければならない。それが、「社会の幸福量最大化」をもたらす論理であるならば。


―――色々あって今日、そう思うに至った。批判があれば是非とも仰ぎたい。