「歴史を変えることはできない。しかし歴史の流れを速めることはできる。」 『宮台真司 / 14歳からの社会学』

14歳からの社会学 これからの社会を生きる君に [ 宮台真司 ]

「意思」はあるときふと「訪れる」もの

たとえば君がおにぎりを食べたとする。なぜ君はおにぎりを食べるという行為を「選んだ」か。それは「意思」したからだ。その「意思」は、君にあるとき、ふと「訪れた」―――。そんな風に社会学は考える。「意思」はふとある人に「訪れて」その人を前に進める。
 ひさんな事件が起こると、「家庭環境が……」「社会が……」という話になる。でも、そうした背景は、事件を起こした人に「前提を与えた」だけだ。家庭環境や社会は、行為の前提を与えただけなんだ。その前提のもとで、その人が何をするかは、彼や彼女の「意思」による。「意思」は、あそこに山があって、ここに山があって、という事柄と同じで「訪れる」ものだ。「意思」という大もとからわかれた「意思」を「意思」することはできても、大もとの「意思」を「意思する」ことはできない。この考え方を覚えておくといい。(中略)
 「意思」は「意思」じゃないものに還元できない。社会学者は「意思」の前提となる社会について分析を加えるだけだ。

 「意思」は人間の理解を超える。人間の考えた理論にとっては「こわい存在」だ。社会学では、こわくないように「その人が選んだ」という風に言い方を加工する。その上で、「それを選んだ背景」を分析する。けれど、その人が選んだという事実は消せないんだ。

〈歴史〉を「流れ」でとらえる

「流れ」を動かす自分が「流れ」に動かされている。「歴史に棹(さお)さす」とか「歴史にあらがう」という言い方があるけれど、〈歴史〉の「流れ」を個人は変えられない。どのみち世界は変わるように変わる―――ヘーゲルという人がそう思ったのも〈歴史〉を考えての話だ。ところが、ナポレオンやヒトラーのようなある個人によって、歴史が変わったように見えることがある。もちろんヒトラーが出なくても似た人間が出てきたのかもしれない。とはいえ、ある時点でヒトラーが出てきたから、ある出来事が起こったのも確かなんだ。
 さっきの話を思い出そう。人間界は「意思」が起点だ。だからヒトラーの「意思」が歴史を変えたといえる。でも「意思」は端的なものだけれど、〈社会〉によって方向づけられている。〈社会〉の中の変わらないもの――〈歴史〉によって方向づけられているんだ。


〈歴史〉の動きは速められる

〈歴史〉にはあらがえない、すなわち「どのみちそうなる」という側面がある。どんなに大ごとに見えても、やがて〈歴史〉の一コマーー単なるエピソード――に見える時がやってくる。そこで「歴史に棹さす」とか「歴史にあらがう」というのはどんな意味を持つのか。
 人間には、歴史に棹さす〈自由〉もあらがう〈自由〉もある。でも、あらがうことも含めて〈歴史〉の一コマにすぎない。〈歴史〉は変えられない。ちょっと待ってくれ。だったら革命家や世直し宗教は、単なるムダな事をやってるだけなのか。君はどう思う?
 9.11の同時多発テロ以降、アメリカはアフガンやイラクを攻撃した。人々は21世紀はアメリカの世紀なんだと感じた。でもウォーラーステインという社会学者は20年前から、ベトナム戦争を境にアメリカは凋落に転じ、その動きは変えられない、といってきた。多くの人はウォーラーステインがとんちんかんなことをいってると思った。実際はどうだったか。アメリカは、大規模な金融不安で経済的な信用を失い、アフガン攻撃とイラク攻撃で政治的な信用を失った。みんながアメリカの言うことを聞く気がうせて久しい。ウォーラーステイン社会学を出発点にしながら、ブローデルという人の歴史学を徹底的に学んだ人だ。かくして人が変えられるように見える見える社会とは別に、変えられない〈歴史〉の意味をとことん理解した。彼は正しかった。どうあがこうとアメリカは凋落するだろう。

 さっきの質問に戻ろう。〈歴史〉は変えられないから、何をするのもムダだ―――。君はそう思っただろうか。僕の師匠・廣松渉はこう考えた。〈歴史〉に参加しよう、と。〈歴史〉が変えられないのなら、〈歴史〉の推転(動き)を徹底的に早めるように動こう、と。ブッシュ大統領によるアフガン攻撃とイラク攻撃という大失策は、ブッシュがいなければなかった歴史だ。でもウォーラーステインがいう意味でのアメリカの凋落は、そうした歴史の有無に関係ない〈歴史〉だ。廣松は、歴史ではなく〈歴史〉に棹させと呼びかけた。
 僕は彼の考えに大きな影響を受けた。僕も〈歴史〉は変えられないと思う。でもその〈歴史〉の「流れ」の中に自分の行動(による歴史)がどう位置づき、長い目で見て〈歴史〉の推転に参与しているのかどうか。その見方は人を――ぼくを――勇気づけてくれる。

「流れ」は一本化できない

 この章の最初に言ったけど、人間界の出発点に「意思の自由」がある。でも「意思」は〈社会〉によって前提を与えられる。真空で「意思」は生じない。ぼくたちは規定されつつ〈自由〉だという二重性を生きる。だからこそ歴史でなく〈歴史〉に棹さすべきなんだ。君ももうわかるだろう。ぼくは〈自由〉だ。だからぼくの「意思」で歴史に棹さそうと選択できる。でも僕が選択しようがしまいが、どのみち歴史は変わらない。その選択が、歴史ならざる〈歴史〉の推転を速めているのかどうか、ぼくにはわからない。

 ぼくは二つのことを言った。歴史を参照することと、〈歴史〉を参照すること。歴史を参照するとは、「歴史にifを持ち込む」ことだ。「かつて同じような状況で、別の選択をしていたら、どうなった?」と。そうすることで、賢明な戦略的行動が取れるようになる。〈歴史〉を参照することはそれとは別だ。ぼく(たち)が賢明な戦略的行動を取った程度のことではどうにも変らない〈歴史〉の「流れ」を見極め、「流れ」に自分を位置付けて、1コマのエピソードにすぎない自分を受け入れ、かつ〈歴史〉に勇気をもらうことだ。
 ただし、繰り返すと、歴史の「流れ」は見えても、〈歴史〉の「流れ」は見えない。見える「流れ」は、国ごとに、社会ごとに、社会の層ごとに、個人ごとに、いつも複数ある。それらの「流れ」が全体として絡まり合い、より合わさって、見えない「流れ」になる。君は、周囲に展開する、見えない「流れ」をよく観察し、賢明にふるまうように心がけるのがいい。でも、その程度じゃどうにもならない、見えない「流れ」があることも、心得ておくといい。するとときおり、見えない「流れ」が見えたように感じられる瞬間が訪れるだろう。

この文章は「事件」だ。そしておそらく正しい、知っている人は知っている、本当は言ってはならないことだ。まったく深遠な世界を垣間見るような気持ちになる。
ここでの言葉を借りれば、〈歴史〉というものを背景に、世界がある終着点へむかって動いている―――。それにどれだけ人類が時間をかけて至るか至らないか、というだけの話ということだ。つまりこの世界そのものの、「運命」「宿命」ということ。やはりどう考えても、『不確定性』など本当は存在しないとしか思えない。(あれは観測者の問題だ)ただそれは俺らにはわからないだけ。社会というマクロレベルでのこの「運命・宿命」があると仮定すれば、当然ミクロレベルにあたる「個人」の「運命・宿命」が想定される。私という個人が生まれた瞬間に、私の至るべき到達点が存在する(到達点が、というよりは、ある方向へと、私は〈方向づけられて〉いる。)―――、その途上において、私が経験するであろうことも―――、そこにこの一生のうちで辿りつけるか、すべてを消化しきれるか、頭が足りなくて、同じ歴史のサイクルを何度も繰り返しているうちに死に至るか―――。


大事なポイントはやはり、いかに「歴史を速めて早く至る」かという所だろう。通るべき壁をなんらかのカタチで早めに経験して、ダメージを最小限に抑えながら、最終到達地点・ゴールへ至るか、だ。では社会においてであれ、個人においてであれ、一体何に「至る」というのか―――。


自分はここに「幸福」というのを考えている。つまり、個人であれ社会であれ、その抽象度におけるすべてを幸福にするような「行為」(『業』でもいい。)の流れを形作りつづけることではないか?その判断をするための「歴史の確認作業」を宮台は薦めていると思うのだ。(はやく学習しろ!ってこと。)


その歴史の確認作業を経た先にある行為こそが「〈歴史〉にあらがう(=つまり運命にあらがう)」ということなのだと思う。それが〈自由〉ということなのだと思う。

―――我々は、〈自由〉と〈不自由〉の二面性を生きている。