うそつきの島

――手始めに比較的わかりやすいパラドックスを。

これは昔々、紀元前6世紀のお話です。クレタ島人が一生の間に発言することはただ一つ、〈クレタ島人は全員うそつきです〉ということでした。


ある日、クレタ島人の一人であるエピメニデスが〈クレタ島人は全員うそつきです〉と発言しました。クレタ島人はうそつき、と言っているその人もクレタ島人です。そこがポイントです。


さて、エピメニデスの発言は正しいでしょうか。


エピメニデスはクレタ島人です。正しいわけがありません。しかしそれはクレタ島人がうそつきと決まれば、のことです。それで、もしイエス、つまりエピメニデスの発言が正しいとすると、どうなるでしょうか。クレタ島人はみんなうそつきだ、ということになります。それはクレタ島人の一人ひとりがうそつき、ということ。つまりエピメニデスもクレタ島人の一人だからうそつきのはずです。エピメニデスはうそつきだから、エピメニデスの発言はうそ。エピメニデスの発言した〈クレタ島人は全員うそつきです〉はうそ、ということになります。


整理。


クレタ島人は〈クレタ島人は全員うそつきです〉という発言だけをします。それ以外は何も言いません。エピメニデスはクレタ島人です。エピメニデスが発言しました。以上です。それ以外は何も条件がありません。


ともかくエピメニデスの発言が正しいと思ったらうそ、つまり正しくない。イエスと思ったらイエスではない、ということになったわけです。


ではエピメニデスの発言が正しくない、つまりノーとしたらどうでしょうか。うそつきでないクレタ島人がいる、ということになります。仮にその人の名前をかわいくクレチャンとします。そのクレチャンは〈クレタ島人は全員うそつきです〉という発言しかしないはずです。正直者のクレチャンの発言は正しいはずだから、クレタ島人はみんなうそつき。クレチャンもクレタ島人だからうそつき。なんか変です。クレチャンはうそつきでないはずです。なぜそんなことになったのでしょう。


落ち着いて考えましょう。いまはエピメニデスの発言がうそ、ということで出発しました。それしかまちがいのもとがなさそうです。ノーと思ったらそれがまちがい、だからイエスのはず。でもイエスとするとノーになりました。


…しかし普通に考えてみればどこの島の住民だって一生のうちに〈クレタ島人は全員うそつきです〉だけしか言わないはずがないです。うそつきよりもある意味そっちの方がいっぽど不気味です。しかしこれはエピメニデスが〈クレタ島人は全員うそつきです〉と発言したという言い伝えがあるので、それを使ってうそつきパラドックスというのを作ったらしいです。エピメニデスはパラドックスを意識したわけではないでしょうけど。


パラドックス! / 林晋 編著/ 日本評論社」より趣意抜粋


…この話自体は数学的でもなんでもないが、人間の意識や言語はある意味、数式、実数の世界のもの。そこにおいて矛盾が生じるということは、我々の常識では不合理でも、なんらかの意味で真実を言い当てている側面があるのではないだろうか。そんなことを思ったり。