アキレスと亀のパラドクスとは、運動の不可能性を示したものではなく、運動に対するひとつの語り方の特徴を指摘したものにほかならない。運動と運動の語りを区別するという、この観点から振り返ると、第三のパラドクスは時間・空間が点時間・点空間から成るものではないということを示唆していた。しかし、第四のパラドクスは時間・空間の最小単位など存在し得ないことを示唆している。そうして私たちは右往左往させられたのである。

だが、幅ゼロまで分割されてしまったならば、もはやそこから運動を語りだすことは出来ない。瞬間をいくら集めても持続は出てこない。点的な実況中継をいくら重ねても、線は語りだされないのである。

結局、時間・空間は一定の最小幅をもつ単位から構成されているのであろうか、それとも点時間・点空間から構成されているのだろうか。




いや、この問い方そのものがどうしようもなく、まずいのである。この問いは、あたかも時間・空間を何かから構成されている物体のようにみなしている。物体に関して、例えば目の前のコップに対して、これは何かアトムから構成されているのだろうかと問うことには一定の意味もあるだろう。しかし、時間・空間に関してそのように問うことに意味はない。時間・空間はそれ自身が語られる対象ではなく、何ごとかを語りだす形式にほかならない。


それゆえむしろこう問うべきなのである。「最小単位を持つ語りをするべきなのか、それとも限りなく微笑になっていくことを許す語り方をすべきなのか、それとも点的な語り方をするべきなのか」。


そして「答えは何を語るかによる」というものだろう。
点的な語り方では運動は語れない。最小単位のある語り方ではすれ違う運動で語れないものが出てくる。そして限りなく微小になることを許す無限分割の語り方では、例えば先のアキレスと亀の競争に対してその1分以後は語れないものとなり、またその語りを語り終えることは出来なくなる。

大事なのはさまざまな語り方の特性を見定めることである。運動を語ろうとするひとつの語り口に、それ固有の限界が見出されたからと言って、それを運動そのものの限界とみなす必要はない。もし、どんな語り方をしてもうまくいかないというのであれば、それは語りだされる対象について深刻な問題を提示するだろう。だがゼノンのパラドックスに関して言うならば、私たちは戻るべきところがある。ごく平凡に、ごく率直に、こういう風に語りだせばよい。


「よーい、ドン。一斉にスタート。アキレスの方が速い。あ、アキレスが亀を追い抜いた」




(以上「パラドックス! / 林晋 編著 / 日本評論者 」より抜粋