【ブッダ・龍樹】を論理学で読み解く

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中論についての解説本はどれも難解、というか「書いてる人もコレ、ほんとにわかってるのか?」と思うくらい、混乱のるつぼだ。著書いわくそれは「西洋論理学の範疇で物事を考えているから、読み誤るのだ」とし、真にその言説を理解するには「ものごとをありのままに見つめ、喋る」いわば「ブッダ論理学」で読み解かねばならないとしている。やや独説すぎて「どうだろう?」と思う点も少々あるが、まえがきで『ブッダ・龍樹思想はわたしのいまや手の内にある』とまで言いきってしまっている。笑


しかして読んでいくと、それがあながちはったりでもなくスッ、と筋が通る話であることに驚く。そのためのツールとして論理学で扱われる16の「真理表」を用いている。つまりこれまでの歳月で積み重ね、構築されてきた論理学の体系を用い、その問題点を指摘しながらブッダ・龍樹を読み解くことで克服し、「ブッダ論理学」として新しい論理学を提示しようとしている点は、かなり評価されていい本だと感じた。


以下一部、抜粋。


言葉の上だけで考えると

自己であると教えられていることもあれば、自己ならざるものであると示されていることもある。しかし、いかなるものも自己ではなく、そして、自己ならざるものではないと諸仏により示されている。

(『中論』十八・六)

最初の文はおそらく問題なく理解されるだろう。ブッダは「自己を洲とせよ」と、自己を中州として拠り所とすべきである、と説くこともあったし、「色形は自己ならざるものである」と「無我」を説くこともあったのである。ここまではいいだろう。
では次の文を考察してみたい。


さらに加えて「いかなるものも自己ではなく、そして、自己ならざるものではない」という文を聞いたとき、率直に言って、みなさまはどう思うだろうか。前に「あるがまま(現実)を見ることなく言葉の上だけで考えることは、ブッダ論理学にとって重大な欠陥である」と述べておいた。わたしたちも現実に沿って考察してみなければならない。もしそうしないとすれば、どうなるだろうか。おそらく次のようになってしまうだろう。
いくつか失敗例をあげてみよう。


まず普通の現代人の場合である。「いかなるものも自己ではなく、そして、自己ならざるものではない」と言われた場合、当然その人には疑問が起こるだろう。「いかなるものも、自己でもなく自己でないなら、それらはいったい何なのだ?」と思うに違いない。
 そして次に「一体何を言っているのだろう?おかしな文だ」と思うだろう。
なぜそう思うのか。


それは「あらゆるものは自己であるか、自己でないかのどちらかでしかない」と知っているからである。これは、排中立といわれる。


こう思った人は西洋論理学の世界にいる。この世界は変化しない世界である。この考え方の人は、「自己ならざるものでもない」という表現を「自己」の否定の否定と捉えて、肯定に戻してしまう。つまり「自己」とするのである。「二重否定は肯定に等しい」と、言われている。だから、これ以上、思考は進まない。


冗長になるが、その思考過程をたどってみよう。「自己でもなく自己ならざるものでもない」という文は、今述べたように、「二重否定は肯定に等しい」という規則によって「自己でなく、かつ、自己である」と書き換えられる。次に、否定を最初におくのは、西洋論理学では嫌われるので、「かつ」の前後で文を入れ替える。そうすると「自己であり、かつ、自己でない」という文が得られる。


これは、矛盾である。あるものについて、「Aであり、同時にAでない、ということはありえない」と言われている。これは矛盾律と言われる公理である。そこで、こういうのである。「龍樹って、わけわからない矛盾したことをいかにも意味ありげに言うんだな。『自己であって自己でないもの』などないのだから、けっきょく虚無を説くんだ」と。かれは、龍樹の思想に「虚無主義」というレッテルを貼り付けて終わりにする。




かき氷はどこへいった


それでは、最後に、ブッダ論理学を知った人の場合を考えよう。この人は、けっして「言葉の上だけで」ものごとを考えない。いつも具体的に考える。変化する世界を注意深く見つめるのである。


たとえば、真夏の暑い日、かき氷を注文する。運ばれてきたかき氷は、誰かが作ったものである。とつぜん湧いて出てきたわけではない。氷は、人の力と電力と水とそれを凍らせる機械とによって生じたのである。このように、かき氷が、直接・間接の条件(因縁)によって生まれてきていることを知るならば、その人は「縁起(因果関係)」を知るのである。
次に、その人はかき氷を食べようとしたが、用を思い出して席を外したとする。しばらくして戻ってきた人は、テーブルの上の器を見てこう言うだろう。
「かき氷はどこに行ったんだ?」


器の中には、かつてのかき氷の姿はない。なにやら液体状のものが入っているだけである。「ほんのわずかのあいだ、席を外しただけだったのに」とその人は思うかもしれない。


その人は、運ばれてきたものがとけてしまったのを見て、「これはかき氷ではない」と言う。しかし、それをちょっとなめてその味をみてまたこういうのである。「かき氷でないわけでもない」と。
変化の諸相をまのあたりにして、それは「かき氷ではなく、かき氷でないものでもない」と知るのである。そして、そのものがさらに変化していく様を見ていると「かき氷ではなく、かき氷ならざるものでもない」という表現すら消えていく。ただただ変化していく世界をみつめ、あらゆるものはあらゆる状態そのままであると、あるがままに知っていくのである。


龍樹登場


ここで、龍樹に登場を願うことにしよう。かれのひとりごとを聞いてみよう。
その人の想いから、冷たく甘い「かき氷」と言語で表わされるのだが、それはいったいどこにあるのだろう。どこにもない。かき氷が運ばれてきたときには、あったのだというかもしれない。しかし、「因と縁により生ずる」という関係は、たえず変化するこの世界の中でどの瞬間にでも見出すことができるものである。名称で言われているものは、変化するこの世界のどこのどの瞬間にあるのだろうか。これは「執着によってかりに名付けられたもの(仮説)」にすぎないと知るのである。ここでもう一度、前に挙げたブッダの言葉を引いておこう。「虚妄な法」である「世俗諦」を述べる次の文は、この状況をたくみに説明している。


 あるものをそのとおりとして考えるとしても、そのものはそれとは異なったようになってくる。それにとって、そのこと(考え)は、虚偽であるから。虚妄の法はしばしのものである。


(『スッタニパータ』七五三)

空性・仮説・中道


たえず変化する世界は、言語で表そうとしても、それを捉えることはできないことを知る。言語で表わされるものは、執着して執った仮説にすぎない。その仮説によって言おうとしても、せいぜい「AではなくAならざるものでもない」という言い方になるだけだと知るのである。これが「中道」である。だから、『中論』二四・一八は次のように言うのである


 縁起しているもの、それを、空性であるとわたしたちは説く。それ(空性)とは、執って仮説することであり、まさに中道そのものである。

(『中論』二四・一八)


さらに、「中道」を深く知っていくと、あらゆることについて、この「中道」が成り立つことを知る。そうすると、次第に言葉で表わされた世界は消滅していくのである。『中論』一八・七はこう言う。

 言い表されるべきものは消滅し、心の領域は消滅してしまう。法性というのは、涅槃のごとくに、生じもしなければ滅しもしないのである。


想いは止んで心の領域は消滅する。ただありのままということがあるだけである。これが、ブッダ論理学のイメージ世界である。
あらゆるものが変化していく世界を的確に捉えるブッダ論理学は、論理自体が思考の流れにあわせて変化していく。その時々の思考を、なんとか言語で表現するが、最終的には、言語表現できないことを知るのである。それが法性であり、それは「涅槃のごとく」であるという。


どうだろうか。虚妄の世界を見ただろうか。それとも絶対的な神秘の世界を見ただろうか。混沌とした妄想の世界を見ただろうか。
どれでもない。
わたしたちはあるがままの姿を見ている。
あるのは、縁起する世界である。


ブッダや龍樹自身が、じつさいに真理表を用いて説明したということはない。しかし、この真理表は、彼らの思想を誤読せず理解しようとするならば、欠かせないものである。とくに、龍樹の思想や論法を知るとき、かれは、ほんとうに真理表を用いたのではないかと思うほど、論理的に整合している。

空性が当てはまるものに対しては、一切があてはまる。空が当てはまらないものに対しては、一切があてはまらない。(『中論』二四・一四)

あなたが縁起と空性を破壊するなら、あなたは一切の言語活動である世界を破壊する。

(『中論』二四・三六)


他者と触れ合うなら縁起が成り立ち、言葉を交わすなら空性があてはまる。縁起と空性を破壊するなら、あらゆる言語活動によって成り立つこの世界は崩壊してしまう。気がつこうとつくまいと、わたしたちは、縁起と空性のなかで生きて活動しているのである。空性のなかで生活していることを知らずに空性を批判する人に対して、龍樹は「あなたは馬に乗っていながら馬を忘れている」と述べたのである。
縁起するものは空であるし、空であるものは縁起している。「縁起」と「空」は同じことを違った言葉で説明したものである。