言葉の中身は意味上からっぽ 〜言葉は生きている〜

ブッダと龍樹の論理学―縁起と中道

ブッダと龍樹の論理学―縁起と中道

ちがった意味をちがった言葉で言う

龍樹は、ひとつの言明について、次々表現を変えながら、意味するところをあきらかにし、最終的には観点の異なる二つの特徴として名づけようとまとめた。竜樹の話すとおりについていくならば、竜樹が意図した思考過程を踏んで最終的に了解できるようになっている。竜樹の説くこのようなやり方は、意外なことに、現代人である私たちにも違和感はないだろう。わかりやすく説明されたという印象を持つに違いない。それと同時に、わたしたちの言葉の使い方や思惟のあり方に疑問の目をむけることになるにではないだろうか。「同じ言葉は同じ意味を持つ」という、言語表現に対する固定観念は、わたしたちの理解をむしろ阻害していたのではないだろうか。言語は使用されているとき、現実には、同じ言葉が同じ意味をもっていることはないのだと気づくのではないだろうか。なぜなら、言葉が使用されるとき、その文脈は常に違っているからである。




言葉は常に意味を変えている。言いかえれば、言葉はそれ自体意味の上では中身はからっぽ、「空」なのだ、とも言える。中身である「意味」をその言葉にこめるのは、それを使う人である。



(中略)



竜樹の言語のあつかいの巧みさ、すばらしさは、ほとんど言葉を失うほどである。名称と色形(名色)を知りつくし、言葉の「空」の特質をここまで熟知した人を私は知らない。「空」を知るということがどういうことか、思い知らされるのである。

この引用だけ読んでもきっとわかりにくいかもしれないが、「これはすげぇことを言っているぞ」と思った。これはきっとゲシュタルトの話だ。
言葉自体は「空」である。しかし、言葉に前後の「文脈」が生まれる時のみ、言葉に「意味」が生まれ、「役割」が発生する。言葉の価値を決めるのは全体の「文脈」なのだ。
一方、ゲシュタルトというのは心理学用語で、「図と地」の概念のことである。
例えば、白い背景(□)の上に、小さな灰色の四角形(■)があるとする。その場合「背景の上にある灰色の四角形は、(白色の背景に比べて)『黒っぽい』」という表現が生まれる。そこで背景を取り換えて、真っ黒の背景にするとする。すると表現はどうなるかというと、「黒い背景に比べて、真ん中にある灰色の四角形はどっちかっつうと、『白っぽい』。」となるのである。


同じ『灰色』であるのに、背景(全体)が変わることでその解釈が全然違ってしまうのである。意味がまったく変わってしまう。つまり背景が存在しなければ、灰色は「灰色」でもなんでもなく、むしろ色という概念すらなくなって「空」となるのである。情報量・ゼロ。



このように、背景・全体・文脈の中においてのみ、個に「役割」が生まれる。
(これは逆に個があってこそ全体に役割が生まれることでもある。要は両者はフィードバック関係にある、ということだ)



ゲシュタルト、ってのはかなり広い分野に拡大解釈できる概念だなぁ…(ぼそり)