外的変化は人間の「内側」から起こる

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確かに、話しことばから書きことばへのシンボル体系の変化は、人間の精神過程に大きな影響を与えると考えられる。旧ソビエトヴィゴツキー(Vygotsky,1963)は「テクノロジーや道具の変化が労働の構造に変化をもたらすように、話しことばや書きことばといったシンボル体系の変化は精神活動の再構造化をもたらす」と述べた。人間の認識活動のあらゆる形式は歴史的発展の過程でつくりあげられたものである。したがって、シンボル体系に変化をもたらすような社会文化的変化は、より高次の記憶や思考の、そしてより複雑な心理的体制化を担うことになると考えたのである。弟子のルリア(Luria,1974)は読み書き能力が抽象的思考の発達に寄与することを実証した。ロシア革命により機械化の進んだ集団農場で働くために読み書きが必要になり短期の文字教育を受けた人々(中間群)、教師養成プログラムに参加した人々(高教育群)、革命の影響が及ばぬ偏狭の地で農場に従事する文字を知らない人々(伝統群)に再認、語連想、概念分類、推理問題などの課題を解かせたところ、伝統群は事物の具体的・知覚特性に基づいて反応する傾向があり、すべての課題で事物間の概念的・論理的関係に基づいた反応をする高教育群や中間群に劣っていた。


「精神活動の再構造化」―――いいねぇ。




人間の精神活動は基本的に言語によって行われる。言語の本質はシンボル(記号)である。つまり知識&経験という名の【記憶】だ。人間は記憶によってしか精神活動ができない。考えるための材料が記憶、というわけだ。認知心理学的には「パンデモニアムモデル」、分析哲学的にはカント、がこれに近い見解を示していると私は解釈している。


さて、我々がこの世界を認識するとき、当然意識の中では「世界のシンボル化(記号化)」が行われていることになる。世界を認識するためには、認識の枠組みをつくらなければならない。つまり脳にとっては世界を理解するための「仮説づくり」である。人によってはやや話が飛躍するように見えるかもしれないが、認知心理学的には現象を捉えるそのシンボルや知識の枠組みのことを「スキーマ」と呼んでいる。「スキーマ」に関しては心理学の世界においても統一した定義があるわけではなく、どちらかというと人によって使い方が異なっていたりして明確な概念として使われていない向きがある。ここでは、簡潔に「知識の最上位概念」もしくは「おおきな知識の枠組み」程度に捉えてもらって構わない。これは例えば経済学の理解を促進するような新たな概念のことを指して「スキーマ」と呼んだり、臨床的にはクライエントの認知的な信念(癖?)のようなものを指して「スキーマ」と呼ぶこともある。後者の場合、うつ病の改善には状況を悲観的に捉えるようなクライエントの認知的スキーマの修正がなされることにより、認識世界の修正が起こり、精神疾患が治る、というようなものだ。


何が言いたいか、というと大切なのは「人間は意識にどのようなスキーマをインストールするか」が重要といいたいのである。世界を捉える仮説は無限にあるのである。それをわざわざ人間をうつにするようなスキーマを採用したり、人間の考え方をわざと狭めるようなスキーマを導入するのは、それは損ですよ、と言わざるを得ない。人間にとって、一度与えられた認識を変えるという作業はかなり困難なことである。心理学者のローゼンハンという人の行ったもので「精神医学診断実験」というのがあるが、(『心は実験できるか―20世紀心理学実験物語 / ローレン スレイター』に詳しい。後日書評も書くつもり)これは自身が統合失調症のふりをして精神科医の診断を受けると精神科医はどの段階で診断を修正するかを試したものだが、結果はやはり保護室にぶち込まれたまま。診断の修正がなされたケースはほんのわずかだった。人間は自分の一旦正しいと認識したものを手放すことを極度に嫌がるのである。


つまり、うがった見方をすると意識とは【アンカリング】そのものなのである。というより「知識」そのものが、アンカリングである。あるスキーマを脳にインストールすると、人はそれに無条件に従ってしまい、以降はそのスキーマによってしか世界を認識しなくなるのだ。ううむ、これはまずい。

人間の意識とシンボル体系(記号論的な)の関係はまだそんなに詳しくなくけど、いずれやるつもり。


うーん、シンボル体系の変化とスキーマの関連をひっかけて書きたかったのだけれど、ちょっと飛躍しているかもしれない。いい線いってるとは思うのだが。まぁとにかくシンボル体系のアンカリング=概念であり、その総体が知識、ってことです言いたいのは。まぁまだ考え途中なのでご了承あらんことを。