「恐怖と不安の違い」

・【恐怖】を考える時は【不安】とリンクさせて考えよ。


対象が明確な時―――「恐怖」といい、
対象が明確でないとき―――「不安」という。


臨床の病理的に考えた時にも、恐怖症にはすべて明確な対象が存在する。「対人恐怖」「広場恐怖」「先端恐怖」「高所恐怖」「閉所恐怖」……諸々。「対人不安」という病名は存在しない。(あくまでも現在のDSM−?−TRにおいては。)「対人」とついた以上、【不安】ではなく【恐怖】である、と考えているということか。
大切なのは、この間も書いたが、恐怖そのものの「処理の仕方」だ。【恐怖】の割といい点は「何が問題なのかが少なからず判っている」点だ。(いいのかわるいのかはわからんが)対象が分かっていれば、対策の講じようもあるというもの。【不安】状態は何が問題であるのかすら分かっていないという意味では、少々厄介かもしれない。敵が何か分からなければ、倒しようもない――。(勿論、敵が居ないに越したことはないがね。笑)

「不安とは、無意味な動揺のことである」


アラン / 『幸福論』


至言だ。
また、

空手の極意(宇城賢冶監修『古伝空手の発想』)とよく似ていますが、「何をするにも相手の反応を予測し、相手が反応する前にすでに対処を終えている」ような構え(行為態度)こそが必要です。相手の反応に驚いているような時点で(相手にというより自分に)既に「負け」ているわけです。僕の個人的意見ですが、どうも昨今の日本人にはこの意味で「負け」ている人が多いと思います。二つの要素があると思います。一つは、共通前提に鈍感であるだけでなく、共通前提を徹底的に観察する習慣がないこともあって、相手を「読む」ことができないところから来る戦略的な稚拙さです。(以下略)


宮台真司 / 日本の難点


恐怖を克服する人間とは、「恐怖を支配した人間」のことなのだ。いったい何が問題で、どう対処できて、それによってどうなるのか―――頭の中ですべての可能性が想定でき、その対処の仕方も知っている、あるいは経験している人間には(別の言い方をすれば「知識」のある人間には)、恐怖や不安というものは存在しないのかもしれない。あとは求められるのは実際に実行に移すだけの【度胸】くらいか。【経験・知識】と【度胸】。一流人はだいたいこの両方を持っているものだ。



願わくば恐怖も不安もない人生を生きたいものだ。だがもし【不安】が生じたらその根拠を考えてみることだ。それが【恐怖】だと感じるなら、その対処法を考えてみることだ。【解決できない】と思ったら――――簡単。「それでも解決しようとする」か、考えるのをやめることだ。(笑)

人間、「本当に恐ろしい」と思っていることは、考えないようにできている。(死ぬこととか)人間には無意識にそういうリミッターがついているのかもね。それに耐えうるタフネスを持った人間が、それに正面から対峙できるのかもしれない。

そういう強さを持ちたいものだ。


アランの幸福論  日本の難点 (幻冬舎新書)