《時間》はホメオスタシスがもたらした錯覚の一種

先にキーワードを3つ。


1、ピアジェの発達理論「対象の永続性」
例えば目の前にコップがあったとして、これを何か(板とか)で隠されても、我々はそこにコップがあることを容易に理解できる。赤ちゃんが「いないいないばぁ」を喜ぶのは、この〈対象の永続性〉がまだ備わっていないために「本当に消えた」と思うからである。赤ちゃんにとって、隠れた顔は『存在しない』に等しいといえるだろう。ゆえに、これが既に備わっている我々は「いないいないばぁ」などされてもちっとも面白くない。なぜなら「物質は、永遠にそこにあるもの」と思うようになっているから。



2、フロイト「恒常性」
フロイトは、子どもが親離れができるようになるメカニズムを「恒常性」で説明した。つまり、程よく発達してくると自分の心の中に、「母親像」を投影してつくりだせるようになり、これを保てるようになったときに「母親はいなくなっても自分の心の中にいるんだ」と思えるようになることで親離れが可能となる、ということだ。



3、痴呆症患者の話
これは自分が聞いた話。ある痴呆症の人に「今日」のことを尋ねる。すると普通に答えることができる。「昨日は何をしましたか?」「明日は何をしますか?」と尋ねると、これも答えることができる。だが「あさって」と「おととい」について尋ねると「あさってって何ですか?」「おとといって何ですか?」と答えた。医師曰く「自分が今居る位置を把握できない、これはもしかしたら時間と空間の概念が通常の人と違っているのかもしれない」と。
(ただこれは個人のケースなので一般化できるかは不明。)




以上から言えることは、
その1―――〈対象の永続性〉〈恒常性〉=つまりホメオスタシスは年齢とともに発達する。
その2―――〈記憶〉と〈時間・空間〉はなんかしら関係がある(かもしれない)。もっといえばホメオスタシスとも関係がある。



ここまで考えて俺の頭にピンと閃いたものがあった。ふと思ったのだが「赤ん坊と我々大人とでは、そもそも『世界』の創られ方というのが全く違うのではないか?」と。
なぜならホメオスタシス(永続性・恒常性)が未発達である以上、赤ん坊の『世界』はいま・そのときの物理的刺激のみである可能性が高い。「いないいないばぁ」がおもしろいのは、だからだ。手で隠された母親の顔は、赤ん坊の『世界』には、本当に存在していないのかもしれない。それがホメオスタシスの働きで、物理的な刺激がなくとも、「母親は存在しているんだよ」と感じれるようになって初めて、《時間・空間》という概念が生まれるのではないか、と。それには記憶の発達も多いに関連しているだろう。


つまりホメオスタシスのまだ未発達な赤ん坊は、過去や未来という概念もない、「いまその瞬間」のみ、つまり《永遠》を生きている――――。


どうだ。荒唐無稽もいいところだろう。笑


だがしかし、だ。もしこの仮説がある程度的を射ていたとすると、『ならば《時間》や《空間》は、ホメオスタシスがもたらす錯覚の一種だ』という見解が生まれる。我々はコップを隠されても、両手でその顔を隠されても、対象そのものは永遠に自分の世界に存在するものだ―――と思い込んでいる。(ホメオスタシスゆえに。)だがなぜそれが本当だと言い切れる?現に赤ん坊はその傍らでキャッキャと喜んでいるではないか―――。


赤ん坊の世界で「消えた」母親と、それを見て「いや、まだいる」と我々が思う「母親」は、どっちが本当に正しいのか。正解はおそらくどっちも正しいのだろう。ホメオスタシスの範疇に入った瞬間に母親は、存在している。しかしホメオスタシスを持たない赤ん坊の世界には存在していない。なぜなら「そこにはないけど心の中にはいるんだよ」と感じれる能力こそがホメオスタシスだから。人間に与えられた、素晴らしい能力なのだから。


《時間》や《空間》はホメオスタシスが生み出したものならば、それをこの物理的現実で支配する(と思われている)物理学や数学、論理学など諸学問とは「人間のホメオスタシスを解明する途上のもの」という位置づけになる。結局物理学も数学も、人間のホメオスタシスが生み出したものに他ならない。導き出されたものがこの宇宙全般の真実である保証は、どこにもない。すべての学問の目的はやはり、「人間の解明」なのだ。


ホメオスタシスについては、苫米地英人氏の新刊がヤバかった。
すごいリーダーは「脳」がちがうこれね。

立ち読みしたけど「ビッグバンは人間が寂しいからつくった」って発想はヤバすぎる。ビッグバンが真実かはどうでもよくて、ひとつの宇宙の始まり方をみんなで共有したいから、っていう。



…だらだらと書いてしまった―――。