環境即我 〜苫米地英人氏の論文から〜

苫米地英人の論文から引用したい。

内部表現は進化の階段とともに進化していることになる。つまり、アメーバや非常に下等な生物のレベルでは、物理的実体(その意味で物理的状態)と内部表現に何ら差がない。つまり、内部表現イコール物理的な生体である。要するに抽象度のレベルが全くないのである。このレベルでは環境とのフィードバックは純粋に物理的な信号のレベルで行われている訳である。ある程度生物が進化して神経ネットワークが進化すれば、抽象度のレベルが生まれてくる。物理的生体よりも抽象度の高いレベルに内部表現が表象化してくるわけである。つまり思考活動が生体の抽象度を上げていくわけである。



【サイバー空間での近未来型エンターテイメント:サイバーホメオスタシス仮説の観点から】

環境とは、内部表現(=生体)がフィードバック関係にある対象である。

(中略)

環境とは生体(=内部表現)とフィードバック関係にある対象である。


(中略)

というよりも、最終的には生体と環境が併せて一つの自己の定義であるという一元論的な方向性がでてくる。ここにおいては、フィードバックループとは自我の整合性を保つものそのものに他ならない。本質的な意味でホメオスタシスである。


環境=内部表現、内部表現=生体、生体=環境。と氏は拡げてくる。凄い。まさに目から鱗状態。「世界即我」、とでもいったところか。


ここで、生物の進化のレベルに併せて環境の興味深い分類が可能となる。3段階の分類である。まず第一のレベル、これは原生的生物のレベルである。このレベルでは、環境とは生体にとっての物理的な外的世界に他ならない。「いま、このときの周囲の物理的な世界」これを物理的現実世界と呼ぶ。原生生物にとっては環境と物理的現実世界が完全に一致する。ところで、内部表現の定義のところでも述べたが、原生生物のレベルでは、抽象的な情報的活動はなされていないので、このレベルでは、内部表現も物理的状態そのものである。従って、物理的状態としての内部表現の間にフィードバックの関係が生まれているわけである。このレベルでは、サーモスタットや温度計と全く同じである。
 次に通常の動物レベルが第二のレベルである。このレベルでは、環境とは生体にとっての物理的な外的世界にとどまらない。犬や猫でも例えばプランニングや、簡単な因果関係の推論を行っている。また、「いま、このとき」ではない世界を想定した活動も行っているようである。この意味で、動物の世界において既に、環境とは純粋に物理的現実世界に限られない。当然、環境とフィードバック関係にある内部表現にも抽象度の高い部分が入ってくる。当然これは、生物の脳の進化と同時に起きてきた現象である。とはいうものの、動物のレベルにおいては、物理的現実世界とほぼ同一である。
 これが、第三の段階つまり人間のレベルになると、環境が物理的現実世界から大きく広がる。もちろん、動物としての肉体を失ったわけではないので、物理的現実世界との物理に近い抽象度のレベルであらゆるフィードバックが行われる環境も依然として存在しているわけであるが、例えば社会とか、数理の世界といった抽象的なものから、小説の世界とか、映画の世界のように物理的現実世界のバラエティに見えるような、とはいっても物理的現実世界ではない、あらゆる世界が環境となりうるわけである。同時に環境とフィードバック関係にある内部表現(つまり生体)も物理的状態から大きく中小空間に広がるわけである。この意味で、先の定義上我々人間のからだそのものが、情報空間に進化の階段を上がると共に進化をとげてきているといえるのである。


引用はすべて上の同論文から。


ものすごく独我論的でありながら、その世界の可能性の拡がりを示すこのダイナミズムは凄すぎる。