不動のセルフエフィカシー(自己肯定)は自分で築くもの。『病になる言葉 / 梅谷薫』

「病」になる言葉──「原因不明病」時代を生き抜く

「病」になる言葉──「原因不明病」時代を生き抜く


星:★★★★


今日から、読んだ本の評価度を「星」でも表現してみたいと思う。あくまで主観なのだけれども、ひとつの直感的な尺度として使うことにする。深い意味はあんまりないよ。「これだけ読んで心揺さぶられました」程度に考えていただきたい。


内容は臨床の視点から見た「言葉」の価値について。言葉自体に善も悪もない、というのが個人的な考えであるので(なぜなら言葉自体も本来「空」だから)、「この言葉がイイ言葉、この言葉はダメな言葉!」とは絶対に一概には言えないと思っている。(だってそれじゃあいつぞやの「水は答えを知っている」とかいうトンデモ本と一緒じゃん?笑)言葉に意味を与えるのは「使われた文脈」であって、言葉そのものに固有な意味があるわけではないからだ。―――――使われる文脈によって、言葉の意味とその善悪は決定される。(=ゲシュタルト。)


しかしあくまで臨床という現場において、多くの人を傷つける言葉というのは確かに存在する。「薬になる言葉」と「毒になる言葉」という表現で本書では区別しているが、圧倒的多数において「毒になりやすい言葉」というのは、たしかにある。その言葉にフォーカスを当てて、あくまで臨床経験から書かれているのが本書だ。
しかして私が本書で惹かれたのは、言葉うんぬんの部分より、臨床から見た「エフィカシー」について書かれた部分である。

「自分を定義する言葉」があなたの身を守る

外来でさまざまな症状を抱え、お話を聞いているとその中にその人の「生きる信念」がくっきり浮かび上がることがあります。どこに住んで誰と出会い、なにを着てなにを食べるか。どのような生活をして、どのような病気になるか。それを決めているのは心の奥底にある深い部分の「信念」だと思うことがあります。


「自分はこのように生きるべき」、あるいは「自分はこのようにしか生きられない」という、多くの人が無意識的に行っている「自己規定」です。それはもちろん、遺伝的な要素にも大きく影響されます。体力や気力、つまり身体的な条件や脳の機能的な条件にも左右されるのです。時代の雰囲気や年齢、家族や職業によっても変わってきます。しかし、さまざまな行動や言葉を通して、その人の行動指針を読み取ることができます。


たとえば、慢性的に自殺を望んでいるとしか思えない人がいます。無茶な行動をする、人の信頼を裏切り続ける、過労と知りつつ仕事への熱中をやめられない……。「自分は生きている価値がない」という信念を、そこから強く感じ取ることがあるのです。


また、たとえば「生活習慣病」と呼ばれる病態も、ただの食事や運動の偏りではありません。その底には、その生活習慣を選んでしまう「自分への定義」が存在します。それをきちんと認識して変えていかないと、生活パターンはなかなか変化しないのです。


多くの人は、それを自覚することが難しい。なぜか自分は運が悪い、最後のところでいつも失敗する、なかなかいい人に巡り合わない。そう思いながら暮らしています。でも、その理由は明確です。うまくいかないように、自分の中の自分が邪魔をするからです。「何をやってもうまくいかない、それがおまえの定めだ」と心の奥に書いてあるからです。少なくとも、私の外来を訪れる人たちは、そう口にします。


「自分は、自分の人生をどのように定義しているのか」
それを明確に言語化し、表現できる人たちもいます。生き方を見ていると、「この人はこういう人だ」と誰でも理解できる人。たとえばマザーテレサイチローの生き方を見ていると、自分を明確に定義して、それを具体的な行動で表現できることのすごさを感じます。彼らの行動力や努力は素晴らしいものがあるけれど、やはり、その根底には自分の特徴を最大限に生かすような自己規定がきちんとある、そのように見えるのです。


彼らのようにはいかなくても、自分の生き方を見直してきちんと「言語化」してみる。言葉にするということは「操作可能なレベルに持ち込む」ということです。的確な言葉で「自分を定義」して、それをさらに無理のない言葉に置き換えていく。タテマエではなく、本音の部分をより無理のない生き方に変容させていくことで、私たちはもっと生きやすくなり、健康にすごすことができるようになるのではないでしょうか。


「自分を定義した言葉」を持っていれば、外部から自分を悪く言われたとしても、耐えることができます。私はそう思っています。外来での治療の「本当のゴール」も、じつはそこにあるのです。




今ある自分は、結局自分が自ら望んだものである。口では「嫌だぁ」と言っていても、内心それでいいやと思っている。そういうもんなのよ。


たとえば、「風邪を引くなんて絶対イヤ、死んでもイヤッ」と心の底から思っている男がいるとする。しかし、この男はいずれ風邪をひく。なぜなら「風邪をひくなんて絶対イヤッ」と心から思っているということは、裏返せば「自分はいつか風邪をひくような人間なんだ。うわぁ〜…だからイヤッ。」ということになる。この場合、男の信念は「わたしは風邪をひくような乱れた生活しかできない者です、ハイ。」と自ら告白しているようなものだ。自分が風邪をひくような人間だ、というのを自分で認めているのだ。


そうじゃなくて、この場合「自分が風邪をひくなんて、俺らしくない。」と言わなければならない。こう言った時点で、本来自分があるべきイメージを「風邪をひかない自分」というところに持っていっているためだ。従って、そのための行動をとるようになる。本当の自己信念はそっちだから。これを、セルフエフィカシー(自己肯定感)と呼ぶ。

脳というのは、究極の論理マシーンだということができる。AということはBでもある、みたいな。そしてその通りに行動しちゃうっていうんだから怖い。


もっといえば、「自分の運命は自分で決めている」ということにもなろう。病気の人は病気の自分に、あるべき自分像を置いている場合がある。お金がない人はお金がない自分に、自分像を置いている。。。これも一種のホメオスタシスであろう。結局、自分が思ったような自分にしかならないのだ。自分が思ったような人生にしか、人生はなりようがない。



心理では「認知的不協和理論」というのがある。自分の認識している現実と、思い描く理想との二つの間にギャップ(不協和)が生じると、人間はそれをなんとかして協和させようとする、というもの。つまり現実を理想に近づけるか、理想を現実に合わせたものにするかのどちらか。(=自分が変わるか、周りを変えるか、ってこと。)どちらにせよ、人間は一定のところに落ち着くのが好きなのよ。。
この場合、自分のエフィカシーと現実との間に不協和がないように人間は動く、といったところか。逆に言えば不協和がないからこそ、今あるその状態があるということになる。




大切なのは、人間は自分で自分のエフィカシーを決めている、という点だ。また、自分で自分を肯定できる強さを持つことだ。うつ傾向にある人は、おしなべて基本的にエフィカシーが低い。