「日本語ラップという可能性  ZEEBRA自伝 / ZEEBRA」

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赤城少年院でのライブ


“ストップ・ザ・ヴァイオレンス・ムーブメント”の延長みたいなところで、ライファーズグループというグループが向こうにあった。全員終身刑の奴らが集まって、刑務所の中で曲を録音して、「つまんない人生を歩むな」っていうポジティブなメッセージを発している。少年院や刑務所にいると、自分の未来すらも心配になったりする瞬間があったりするじゃない?
ある意味、ものすごく追いつめられた場所だから。
そういうところで、メッセージを発したいと思った。それで赤城少年院でライブをやることにした。参加したのはキングギドラ童子ーTとUZI。何もないところだからこそ、何もなくてもできるものがそこにあったら、どう思うんだろうなって。
基本、ラップは何もいらないんで。
紙とペンがあれば、できちゃう。
アメリカだと、マクドナルドの店内で子供が2〜3人座って、机を叩いて、そのリズムに対してひたすらラップしてたりする。
これ、いいじゃんってなったら紙に書いていく。そんなことばっかやっている。本当に何もいらない。R&Bシンガー、ゴスペルシンガーは子供の頃から教会でで歌ってきたという人間が多いけれど、ラップはそういうキャリアも必要ない。
むしろそいつがどう生きてきたか。
どう人と接してきたのか。
そしてそれをどう思って、どう上手く言葉にしていくか。
大切なのはそこなので、音楽をやってなかった普通の人間にもやりやすいことだと思う。チャンスはみんなにある。ドアはちゃんと開いている。ヒップホップって、そういう強みもあるよね。
行きたくないところまで行ってしまって、そこから戻ってくる強さを曲に出来る若い子がいたら、それはすげぇことなんじゃないか。慰問ライブをやる意義は強く感じた。オレらは社会一般のルールには沿っていないかもしれない。だけどオレらの中でのルールに沿って生きていて、オフィシャルでおまえらの前に出てこれるんだよってことも、身をもって示せるんじゃないかと思った。その事実も彼らにとってはプラスになると思うんだよね。少年院の中にいて、楽しいと思ってるヤツはいないし、早く出たいはずだ。そういうヤツらのプラスになれればいいなって。

ANARCHYも塀の中でオレの曲を聴いて、ラップ、ヤベーって思ったって言っていた。それでラップやろうって思ったって。オレらのラップってそういうとこにいるヤツにこそ、響くんだろうなって思った。
オレもいつもギリギリのところにいた。あのとき、ああなっていたら、ここにいただろうなって、普通に思う。


赤城少年院でのライブは制限は多かった。着席して聴かなきゃいけないし、声を出しちゃいけないし、手も膝から離しちゃいけない。
「楽しかったら笑ってくれ、顔で表現してくれ」
そしたら、みんなニコニコしてくれた。すげぇ、うれしかったね。


ヒップホップは格差社会の中での持たざる者の文化


今って格差社会だし、持たざる者の比率はどんどん増えている。でもヒップホップはそういう層の原動力になりえるものだと思っている。
ヒップホップとは持たざる者の文化だから。
アメリカの持たざる者だった黒人達の地位もヒップホップ以降、確実に向上した。ブラック・スーパースターのマイケルジョーダンの存在も大きかった。ただし、ジョーダンが神格化されたのは、みんながNIKEを履いたから、つまりそういうスタイルが流行ったという前提があったから。オバマが登場した背景にもヒップホップが果たした役割は大きいと思う。彼らの場合たまたま人種で区切られて、恩恵が黒人層に行かないという状況がひとつのパワーに繋がっていった。
エミネムは白人だけど、彼には彼なりのヒップホップがある。
一番ストレートな、そして正直なユースカルチャーがヒップホップなのかなって思う。そのジャマイカ版がレゲエだったりする。

USの他のジャンルの音楽でも、ヒップホップの良い部分を確実に吸収して、次のことをやろうとしている人たちが目立つようになってきた。もしロックが昔からユースカルチャーの一本の柱になってるとしたら、そこにもう一本、同じくらいのサイズの柱として、ヒップホップがある。
日本でもそこまでやらないと、ヒップホップの本当の威力は発揮できない。
90年代くらいまではヒップホップの歴史イコール・ブラック・カルチャーの歴史だった。それ以降、白人ラッパーも台頭してきたし、他の人種のラッパーも出てきた。


大きな影響力を持ったカルチャーなんだから、日本でも有効に活用していくべきだし、若い世代の世論を伝える音楽になって欲しい。


オレがヒップホップをやっているのは、先人達のメッセージがオレに届いて、オレを変えたから。
オレも同じように、メッセージを次の世代に届けたい。そして次の世代を変えるきっかけとなっていきたい。それがどんどん続いていけば、そのサイクルはきっとさらに大きなパワーを生み出していく。


一言言っておくが、俺は基本的に日本語ラップが大好きだ。最近のはもう全く聴かなくなったが、一世代前の日本語ラップはもう大体聴いた。
最近の日本語ラップは、はっきり言って、つまらない。最悪。TVで調子乗ってるヒップホップまがいは論外として、アンダーグランドヒップホップも一見かなり盛り上がってきているが、内容ははっきり言って衰退している。
高校時代、日本語ラッパーは俺の人生の先生だった。毎朝ヘッドフォンでヘッドバンギングしながらチャリで学校まで行ったものだ。
そこには確かなメッセージがあった。
人生の本質を突いたパンチラインの数々は俺の脳内を哲学させた。そしてあの時代に考えたことが、今でも自分の思考の根っこになっている。今のヒップホップにはそれがない。何も得るものがない、そんな音楽は聴く必要がない。


日本語ラップをオーバーグランドまで持ち上げた水面下での最大の功労者は(マイクロフォン)ペイジャー以降の、ZEEBRAであり、ライムスターであり、ブッダブランド、カミナリ…といった人たちであったが、彼らが現今の薄いラッパーと違ったのは、まずその人生経験の豊富さであり、「人格が優れていた」こと。また「当時の社会に対する危機感のようなもの」がピリピリと曲を通じて伝わってきたことだった。あの勢いは今聴いてもすごいし、感動する。



それは文化としてのヒップホップの姿勢そのものだった。
ヒップホップとは街のどこかに黒人がいて、虐げられた彼らがいなければできないような、成り立たないような、そんな狭いものではないと思う。平和そうに見えるこの日本にだって、「差別」は厳然として存在するし社会の抱える不条理や、解決しなければいけない問題は、すぐ側にあるのだ。



その「虐げられている人々」が、自らの手でペンと紙を握り、社会に対して「自分の声で」「自分の言葉で」喋り出す。そのチャンスと機会を与えれる媒体として、ZEEBRAはヒップホップを考えている。それはもはや音楽の枠を越えた、生き方に通じるものがある。


自分も、そういう意味で日本語ラップ、ヒップホップという文化は他のジャンルを凌駕する自由さと、インパクトを兼ね備えた音楽として評価している。


いい本だった。