「知=権力」。知の目的は【コントロール】することにある。『90分でわかるフーコー / ポールストラザーン』

90分でわかるフーコー

90分でわかるフーコー

一言。面白かった。


新しいことを知る時はまず概論的な本から読むことにしている。その方が全体の枠組みの中で捉えれるから、トピックの理解が早いのだ。
まずは全体像をつかむ。

ちょっとした読書のコツだろう。



この本もちょっと安易そうなタイトルではありますが、いってみた、と。まぁ難しい本読んでるから頭イイわけではないと思うので。どんだけエッセンスを汲み取れたか、だと思うのでね。
ニルヴァーナ聞きたくていきなり「ベスト盤」買ってしまう、みたいな気恥かしさはありますがねw、まぁ、いいんすよ。イントロはそれでね?


「狂気の歴史」知のシフトは権力のシフト。

まず、19世紀初頭に精神病院がたてられて犯罪人や狂人が収容され、見世物として大衆に娯楽化された歴史があった。狂人を定義することにより、理性が定義された。この「理性的思考」たちは、労働観や社会観についての考察を深め、社会秩序の建設がはじまる。


しかして、フロイトの時代が訪れると、彼は「治療者&患者」という枠組みによってかつての「狂人」に、鎖でつなぐ代わりに解放を与えた。狂人の社会的立場は変わった。しかし、この解放には別の幽閉が待っていた。その構造を見れば、狂人は精神科医と患者の会話、というシステム―――つまり、患者は全知全能の精神科医支配下に置かれることになる。フーコーからすれば、このような過程すべてに権威主義的なブルジョワ社会のあり様が映し出されていたのだ。



これをさしてフーコーは狂人の定義が歴史によって変化している、「知の体系のシフトが権力(パワー)のシフト」をもたらしている、と指摘。また裏を返せば権力のシフトの背景には、必ず知の体系のシフトが存在する、という。

フーコーは狂気の歴史が時代の進展とともに変わっていったことを証明したのである。
振り返ってみよう。狂気の定義が変わるにつれて、理性の定義も変わっていった。



また、狂気に関する知識の変化は、権力(パワー)の重大な変化とも結びついていた。(狂人の扱い方を思い出して見てほしい。自由から拘束を経て治療へと変化していった。)
ここでフーコーは指摘する。狂気だけではない。他の場合もそうだ。どのような知の体系であれ、それがあらわれる時には必ず知の体系のシフトが伴っている!患者の役割や心理学の話はひとつの例に過ぎない。経済学でも社会学でも同じである。科学ですら例外ではない。

一つの知のシステムの登場や発展には必ず権力(パワー)のシフトが起こっている!

かつては医学の目的は、病気を取り除き、健康を取り戻させることであった。ところが19世紀初頭、古典医学が臨床医学に取って代わられることにより、病人の肉体そのものが医学的な観察や分析の的になる。医学の目的もシフトする。かつては、あいまいなところがあるにせよ、一見したところでは自明な「健康」をもたらすことが、医学の目的だった。それが、患者を「正常で標準な状態に戻す」ことが医学の主眼だとされるようになる。(標準体温や標準脈拍数というような言い回しを思い出して欲しい)


臨床の誕生とともに医学は科学になる。ひとたび科学になれば、当然台頭しつつあった他の科学と結びつく。かくして、解剖学、生理学、化学、生物学と医学が結びつく。医学は制度化された社会の中で自らの立場を築き、政治構造や社会構造と関係をもつようになるのである。


「正常で標準なもの」という概念は、知らぬ間にどうしても政治的な営みや社会的な含みを持つことになる。


『狂気の歴史』では、狂気は精神病院の中に閉じ込められてしまう。つまり、権力のシフトが起こっている。医学でも、臨床が登場するときに、権力のシフトが起こっている。やはり知のシフトに伴い、権力(パワー)のシフトが生じるというのである。

知というものには、常に何か目的が潜んでいる。知は目的を持っているのである。
ならばその目的とは何だろうか。知の特徴とは何だろうか。それは、「支配し、自分のものにしよう」という意志である。知は決して、抽象的で中立的なものではない。目の前のものを自分のもとに服させようとする。人間が知を求めるとしたら、それはこの効用のためである。何かを支配するために役立つからである。したがって、知は力を持つものであり、御し難いものなのである。



こうして、フーコーは知と権力がいかに密接に結びついているかを解き明かし、「知=権力」という概念に到達する。

『監獄の誕生――監視と処罰』

そしてこの本である。

タイトルには「監獄」しかあらわれていないが、実際には学校、工場、病院などのような制度についても言及されている。こうした場所では、権力は抑圧を行うだけではない。権力は抑圧者そのものにまで影響を与えるという。このシステムの中で働く人間達は、複雑な権力の網の目によって結び付けれらている。誰一人、この網の目から逃れることはできないというのである。

 フーコーの主張はどのようなものか。18世紀が終わるころに監獄が生まれ、拷問や公開処刑は投獄に道を譲った。犯罪者個人の肉体を単純に破壊する代わりに、社会が犯罪者の肉体をコントロールしようとする。けれども、権力の支配下に置かれたのは犯罪者の肉体だけではない。同じような変化は社会のいたるところで起きている。軍隊には教練(ドリル)が導入され、産業革命で生まれた産業には、管理され訓練された労働力が必要になる。時はまさしく、ナポレオンが近代フランスの礎を築きつつあった時代である。軍隊や企業の発展ばかりでなく、社会に対する包括的なコントロールがいたるところで強化されていく。新しい司法制度がつくられ、新しいもろもろの規制が整えられ、公的な生活の多くの面を組織化する試みがなされていく。伝統的な伝統的な田園生活は、構造化された都会社会に席を譲ったのである。



フーコーはこうしたプロセスを監獄の誕生という小宇宙に映し出して、吟味していく。
刑罰の制度が生まれたのは、何も改革者に博愛の精神があったからではない。人道主義があって、それが刑法という形に結実したのでもない。規制され訓練された社会が台頭してきたのであり、そのことの自然な結果として刑罰の制度が生まれたに過ぎない。かつては肉体を破壊するだけだった権力は、分節化と組織化がなされ、肉体をコントロールするようになる。

監獄でも、学校でも、企業でも、軍隊でも、肉体は訓練(調教)と監視のもとに服するようになる。


なるほど、絶対的な権力を握る人間が消えたかに見えても、権力の亡霊は今でもその姿を変えて、社会の中で人を支配している、ということね。。権力は実態を持たなくなる。


フーコーはそう主張しながら、ジェレミーベンサムの「一望監視施設」(パノプティコン)という古典的な監獄の例に言及していく。


円環状の建物を周囲に配置し、中心に塔を建て、そこから監視を行っていく。塔から独房の並ぶ周囲の建物を眼下に監視する。独房の中の囚人は、誰かが塔からいつでも自分たちを監視できるのを知っている。だが、独房からは、監視者は見えないようになっている。


この「一望監視施設」(パノプティコン)のモデルが、新しい社会の基本的なイメージとされたのである。


これを見れば明らかであろう。以前にフーコーが書いた歴史と同じ方向のものになっている。投獄には、支配(コントロール)と知のシステムが含まれていた。だから、やはり権力と知はひとつのものなのである。


だが、この過程の中で権力そのものも変化を被る。権力は実態を持たないようになるのである。権力はもはや絶対的なものでもなければ、中心に立つひとりの人間――ルイ15世などの絶対君主――によってふるまわれるものでもない。権力は「テクノロジー」と化したのである。社会が構成員を制御するテクニックが権力に他ならない。過剰なルールと規制のただ中でこそ、現代の個人というものがつくられていく。様々な制限に反応していくことで、現代人は自分を作り上げていくと言ってよい。


これをもっと早く読みたかった。中学、高校時代の自分に読ませてやりたかったよ。


知とは支配という一種のベクトルを持つ。新しい概念がつくられるとき、新しい支配が始まる。それが善意にしろ悪意にしろ、だ。ある意味、人を統治するには、やはり「知の体系」が必要なのだ。そして創りだした人の手を離れた「知」はいつしか一人歩きをはじめる。「知」そのものが気付けば「権力」と化している。システム化された「知」がさしずめ「組織」といっていいだろう。そこに順応できる「優秀な」人間によって、網の目の外に出ようとする人々は常に監視される。そこから逃げおおせるのはもはや至難のワザである。


恒常化されたシステムは常に強化され続ける。それに順応する人間がいるかぎり。そう仕向ける「知」が存在し続ける限り。





フーコーはさらに議論を続けていく。
監獄の誕生と時を同じくして、数多くの社会科学も誕生している。犯罪学、社会学、心理学などが産声をあげた。刑法のシステムに収容された人間が研究され、定義されていくのである。それは、狂気が閉じ込められたときに「正常なもの」の概念が発展したのと軌を一にしている。
さらに、新しい科学が発展していくと、社会が「囚人」をコントロールする力も増大の一途をたどる。経済学、歴史学、地理学といった学問が科学としての体裁を整えていったのも、すべてこの時期だった。「知=権力」は人々をより深い理解へと導いたと同時に、人々をより強いコントロールへと導いたのである。

まったく、目の醒まされる思いだよ。