謹賀新年

2009年になりました。あけましておめでとうございます。今年も「お変わりなく」―――――――…なんてことのないように、あえて変化、変化の一年にしてまいります。いいこと、「お変わりなく」なんて言ってるうちは永遠に、まじで、お変わりなく一生が終わるのよ〜?♪


昨年は年末の段階でこのブログのヒット数も2万ヒットに及び、こんな稚拙な代物を見ていただいて恐縮の限りでございます。始めたのが8月あたりになりますから、半年の間にそれだけの人がこのブログを開いてくださったのは誠に感謝の一言に尽きます。ありがとう。
(2009年1月6日現在も、1日200件はアクセスがあります。有難い)

これからも、誰よりも深く、より高く、そして広く(この「広さ」こそがこのブログの醍醐味でもあると自負している)先人、先達者へのリスペクトを胸に抱きつつ、謙虚に、多くの人に有益な情報を提供していける、そんなブログ作りに邁進していく所存でございます。



ネットをちょっと考える

もちろん、このブログは情報提供が第一義だったわけではなく、最初はあくまで「自分のためのブログ」でありました。その根本部分は今後も変わりませんが、見てくださる、という人がほんのちょっとでもいる以上、「見る側/見られる側」という『あなた』との関係性も大事にしていきたい。(そう、あなただ。)

そういう意味で、このブログを有意義に使えたらと思います。やはり一個人の立場で多くの情報を、多くの人に発信できるのがネットの『強み』だが、いかんせん顔が見えないし、リアリティがない。故に「素通り」することができるのが、ネットの『弱み』。情報の発信だけであって、そこに「交流」が生まれにくいのだ。


だから、提案としては、早く科学技術を発達させてネットの世界に「リアリティを伴わせろ」と言いたいのだが。ホントのリアリティを伴った「人と人の交流」になった瞬間、まさか顔を見てシカトこいて、場を去れる人間はいまい。笑(俺でもできない。笑)だってそれが本当の「人間と人間の交流」なんだもん。そうでしょ?だからまだネットは完全じゃない。「完全な交流」になりきれてない。それにはリアリティが必要。人間は前頭葉を発達させすぎて仮想空間にもリアリティを感じれるように進化した動物なのだから(現実に起こってない映画やTV見て、楽しいでしょ?)、それは不可能ではないはず。まぁ、しかしそこにはネット特有の「匿名性」が持つ利点も見逃してはいけない、という声も勿論ある。しかし、これだけの膨大な情報量が潜在的に存在している空間に人と人の「交流」を生み出せていないのは、誠にもったいない、と言わざるを得ない。「交流」がもっと活発になれば、どれだけの情報量が倍倍、になって生まれていくことか。計り知れない。その可能性を考えると、ネットにはやはりリアリティを持たせて「現実(リアル)化」させていく方が、得策であると考える。そしてそれは、『絶対にできる』し、今現実に、そこに向かって科学は進んでいる。(携帯電話やワイヤレス技術の発達に見られるように、それらの最終目標は、ずばり、脳とネットワークを連結させることなのよ。)


今後の科学に期待しております。

近況

長らく更新は途絶えておりましたが、まぁちょっとした休養期間を過ごしておりました。地元に帰っておりましたし、そこで友人たちと、まぁ早い話が飲んだくれていたわけでございます。警察官、針治療師、主婦、学生。色んな人間たちと会って、そやつらの脳内情報を全部よこせ、と言わんばかりの勢いで、知識を吸収、そしてまたアウトプットしてきたわけでございます。大変有意義な休養期間でございました。


特に、面白かったのが警察官と針治療師との酒席。

警察官とは主に、そのちょっとした社会の裏構造&世の中の欺瞞、そして心理学について。心理学については、「ラポール」がひとつの焦点となった。末端の警察官が道端でやってることでさえも、結局は心理学的に理にかなってるんだなぁ、と実感。


針治療師とは、主に神経生理学の話。『眼球運動と脳の活動にはどうやら密接な関係がある』というテーマの下、REM睡眠や、心理療法の「EMDR」などについて。「そんなわかりやすい説明俺にはできない」と、神経生理学を実際にやってる人間から、あたしの知識の裏付けを頂くことができた。これはかなり自信になった。



どうやら、ここまでの情報の集積がある程度のところにまで至っているような手ごたえがある。
去年までは自然科学系を中心にやっていた。そしてそれは、去年の段階で自分の中でひとつの到達点に辿りついたと思っている。いや、別に全部がわかったわけじゃなくて謎はいっぱいあるんだけど、「本質的なところがわかった」って感じ。



2009年 〜ひとつの到達点〜


ここでちょっとここまでの自分の集積の結論をまとめて書いておこうと思います。すこし長くなります。気合いのある時にだけ読んでください。



2008年におけるひとつの到達点―――それはつまり、「どうやら宇宙は情報の集積体であり、人間はそこに存在する情報処理機構である」ということ。おそらく、コレで決まり。人間は宇宙から情報の一部を取り入れて、五感を通してそれを処理している。その処理された情報状態が「心」であり、大乗仏教ではその分類として「十界論」というのがある。
―――世界は人間の観察によって成り立っている。いや、観察する人の数だけ宇宙が存在する。私たちはたしかに同じ空や建物を見ているのだが、そこには「情報の質的な違い」が存在しているのだ。例えば小高い丘に登った時、普通の人は何も考えずにそこを通り過ぎるかもしれない。しかし、もし地質学の知識がある人間がそこを通った時、地面の地層を見て彼は「ここは昔、海の底」だったことを示す「リップルマーク」だと気づくかもしれない。その人が持っている「知識」に差があることで見えている世界がまったく異なるのだ。またこれは、人間は経験したこともしくは知っていることでしか、宇宙に存在する情報に気づくことができない、というだけの話でもある。


ひとつの事象を前にして、そこから見出される情報量が人によってまったく違う―――。事象には無限の情報量が存在しているのであるが、人間はそのすべてを認識できずにいる。量子力学において指摘されている「重ね合わせ」の現象(相反して矛盾にした状態が、素粒子レベルでは同時に成立しているという、量子力学からはじき出されている現象のこと)や、認知心理学における「アフォーダンス理論」(ひとつの椅子は「座る」という価値のほかに「上に登る」「物を置く」「挟む」等の価値を世界に対して「アフォード」している。そしてその価値は「生体との関係性」の間に生じるものであり、生体が変われば引き出される価値もまた変わる、という認識論におけるひとつの解釈の仕方のこと)を見ても、またそれだけをとっても、それは明らかだし、そこには妥当性があるように思えてならない。


そしてこれらに共通するのは皆、生体が宇宙から処理した「情報」であるということであり、結局のところこれらは「ゲシュタルト」なのである。人間は、宇宙から情報の一部を「経験によって」認識、処理し、「認識」という名のゲシュタルトを創り出しているのである。つまり、人間にとって大事なのは、どの情報を「観測」してゲシュタルトを創り出し、そこに対していかに「ホメオスタシス」を働かせて物理空間にそれを実現させていくか、だということができる。


日常的な観点で観ると、宇宙には、「喜び」も「悲しみ」も同時に存在、成立している。人間はときに何か不幸に見舞われて、自分の人生は終わりだ、と悲しみに沈むことが何度かある。しかし、その悲しみは究極問題、そのひとが「悲しみ」というゲシュタルトを認識して創りだしている可能性がある。その不幸と思われる出来事には、本当のところ「不幸」も「幸福」も同時に存在していると私は考える。あるいはもっと多くの「何か」が―――。それを認識できるかは「こちら側」による。幸福か不幸か、それを決めるのは人間自身だ。見出すのは、人間自身だ。だから自分を「拡大」させなさい?you know?となる。これは仏教的に言えば、悲しみを認識する「境涯」を「拡大」させなさい?となる。幸福を見つけ出せる「自分」になりなさい、ということだ。何ものにも揺るがぬ「幸福の城」は、自分の「ココロの中」に築くのものなのだ。


出来事もそうだし、いわゆる欲望、煩悩というのも同様にいうことができる。釈迦は「世界は空だ」とは説いたが「空になれ」とは説いていない。欲望を消し去ることが「涅槃」であると一般的に捉えられているが、それは間違い。宮崎哲弥も述べているように、「煩悩と涅槃は同時」なのである。情動に振り回されるのは確かに愚かだが、大事なのはその情動を「どう使うか」だ。ひとつの「欲望」にすら無限の情報が潜在的に存在している。欲望に振り回される「欲望の奴隷の人生」ではなくて、「欲望を、自分の人生という文脈において【使っていく】人生を生きなさい」ということだ。それが、ひとつひとつの欲望に対してどういう「ゲシュタルトを認識するか」ということなのだ。自分の人生という文脈の中において、欲望がどういう価値を発揮するか、ね。その「価値」というのがゲシュタルトのこと。欲望は目標ではなく、ツールに過ぎない。使うのと使われるのは、紙一重だ。これが、私がここまでで何度も述べている話であり、「ゲシュタルト」であり、「空」の話なのだ。



「空」と聞くとどこか虚しいイメージが喚起される。しかし、実はそうではない。
私の解釈では、「空」とは「無限の可能性」だ。なぜなら、無限の情報量を含むがゆえに、無限のゲシュタルトを作りだすことができるからだ。空とは「希望」の論理なのである。その上で言おう、すべては、空である。



すべては【認識】の話だ。そして仏教もある意味「認識」の話だ。これこそが自分の、いままで最も知りたいと思っていたことだった。それを、自分の中で、遂に理解した気がする。だからこそ、私は今が一番生きてて楽しいんだ。


人間は「最悪の不幸」において「最高の幸福」を見出すことができる。
これは私の経験からも確信を持って言えることだ、とも言っておこう。詳しくは述べない。めんどいから。


とまぁ、こんな感じ。見直してみて思うが、主観多し。そこを留めて解釈してくれるとこれ幸い。