第二のパラドクス 分割のパラドクス

ゼノンのもうひとつのパラドクス(「分割のパラドクス」と呼ばれる)はこの構造をより鮮明に取り出している。


 矢を的に向けて放つ。矢は的に到達する前に、まず弓と的との中間点aを通過しなければならない。さらに矢は、aに到達する前に、弓とaの中間点bを通過しなければならない。
お分かりだろう。
これはいつまでも続く。矢はbに到達する前に、弓とbとの中間点cを通過しなければならない。かくして、矢は最初の運動を始めようとしても、必ずその前に果たすべき課題が突きつけられ、運動の最初の一歩を踏み出すことさえ出来ないのである。

◎――――――― a ―――――――― ←矢


◎――――――― a ―――― b ―――― ←矢


◎――――――― a ―――― b ―― c ―― ←矢


……

………続く。


このパラドクスには別バージョンが考えられる。矢が的に到達する前に中間点aを通過しなければならないというところまでは同じだが、aまで到達したとして、その後、矢はさらにaと的との中間点を通過しなければならない。そしてそこを通過してもなお、そこと的との中間点を通過しなければならない。以下、これが延々と続く。こうして、矢が的に到達するまでに、矢は無限の中間点を通過しなければならない。ということは、つまり矢は的に到達しない、というのである。



アキレスは亀に追いつけない、矢はその運動を開始することが出来ない、矢は的に到達しえない、これらはすべてひとつの根をもっている。運動を、限りなく小さな部分の無限の集積として捉える、これである。ひとつの運動は無限個の微小運動からなる。それゆえそれは無限回の運動の遂行を含む。だが、無限回の運動を完了させることは無限の意味からしてできっこない。だから、運動は不可能だ。


 

これに対する直接的な反応は、運動を無限個の微小運動の集積として捉えることを拒否する、というものだろう。いささか乱暴な言い方をするならば、こうである。
現実にアキレスが亀を追い抜くのは、アキレスの一歩がある幅を持っているからだ。アキレスと亀の差はどんどん小さくなってくる。だが、ある程度小さい距離はもはやアキレスの一歩たりえないだろう。アキレスはそれをどこかでそれを「えい」とまたぎこすのではないか。


無邪気な言い方だが、言い分はある。もっとシリアスな言い方をするならば、空間は無限に分割可能ではなく、どこかで最小の単位をもつのではないか、ということである。お望みなら、「空間の量子仮説」と言ってもよい。そしてもし、空間が最小単位を持つならば、アキレスと亀のパラドクスだけでなく、分割のパラドクスも生じないことになる。矢もまた、アキレスと同じように、空間の最小単位を「えい」とばかりにまたぎこすのである。


…ね?おもしろいでしょ?
最初は「アタマの良い人間のする、アタマの体操かよ」みたいな空気を感じたかもしれんけど、段々と問題が「空間と時間」の本質的な話になってくるんすよ笑

空間や時間には果たして最小単位があるのか。それとも無限につづく数字の世界があるのか。。。

たぶんこういう矛盾が生じるのは、「今の人間の常識がどこか間違っている」からだと思うんだよね。だからその常識では捉えられない現象を前にすると、われわれには矛盾として映ってしまう…。


そういうもんっすよね。アインシュタイン相対性理論だって、時間と空間の非常識さをそのまま受け止めるところから始まったわけだし。


矛盾ってのは大事だ。


第3のパラドックスに続く。。。