第3のパラドックス 「矢は静止している」

 ゼノンの第3のパラドクスはまさにこの方向に向かっていると理解できる。


それは一見まったくの屁理屈に聞こえる。
「飛んでいる矢はどの瞬間をとっても、その瞬間には静止している。それゆえ、あらゆる瞬間にそれは静止しているのであるから、飛んでいる矢は実は静止しているのだ」、というのである。


しかし、この屁理屈も、第一と第二のパラドクスにつなげられるとたんなる屁理屈ごとでは済まなくなる。先の2つのパラドクスが示しているように思われる方向、つまり空間は無限分割不可能なのではないか、という方向へと議論を純化、徹底させたもの、それがこの第三の、飛ぶ矢のパラドクスなのである。


空間が無限に分割可能であるとしてみよう。そのことはまた、時間の無限分割可能性をも伴う。空間は無限個の点から成り、時間は瞬間から成る、というわけである。だが瞬間においては、飛んでいる矢も静止している。そして、静止しているものをいくら集めても、運動にはならないのではないか。


なるほど、一枚一枚は静止画像であるものも、連続して映せば動画になる。だがそこに動きが現れるためには、異なる静止画像がバラバラにあるだけではダメで、複数の画像を一定の持続性をもった知覚の中で、いわば「同時」に見るのでなければならない。そもそも、時間幅ゼロの瞬間に響いた音はもはや音ですらないだろう。そして、瞬間の音をいくらかき集めても、音は鳴り響かない。


 それゆえ、運動が可能であるためには、時間・空間は無限に分割することはできず、最小単位を持たねばならない。そう結論したくなる。そう結論したくなるのだが、実はそうもいかないというのが、ゼノンの第四のパラドクスに他ならない。


第四のパラドクスに続く。。。