マンダラは宗教問わず存在する


 私が知る限り、「マンダラ」型図形はすこぶる普遍的で、世界中に見られる。本書のはじめの部分で指摘したとおり、ヒンドゥー教にも、キリスト教にも、イスラム教にも、ケルト文化にも、ネイティブ・アメリカンアメリカ大陸の先住民)にもある。探せばもっと広い範囲で「マンダラ」型図形は見つかるかもしれない。さらに、精神医学者として知られるユングも、精神を病む人々との交流の中で、「マンダラ」型図形に出会っている。

そのヒンドゥー教に、「マンダラ」がある。ただし、マンダラとは言わずに、ヤントラ、という。ヤントラの語源はよくわからない。特定の機能をもつ機械もしくは装置を意味するという説もあるが、どうも後知恵のような気がする。仏教とヒンドゥー教の関係では、どの領域でも、おおむね仏教が先行する傾向があった。考えてみれば、仏教はそれまでの宗教を批判するかたちで出てきたのだから、思想の面で先行するのも当たり前と言えば当たり前の話だ。


 ヒンドゥー教ではこのヤントラを瞑想に用いる。この点はマンダラとなんら変わらない。そしてヤントラはヒンドゥー教パンテオン(神々の殿堂)を構成するたくさんの神々の住居、すなわち宮殿とみなされている。この点もマンダラと同じだ。瞑想の方法論や手順も、仏教のマンダラと変わらない。瞑想者は、ヤントラを心の中に描き出し、その中心で神と融合することを目指す。ヤントラの外側の輪から少しずつ中心に向かって進んでいくにつれ、瞑想者はさまざまな段階にわたる浄化と顕現をイメージする。最終段階では、自分自身の身体そのものが、宇宙全体を内包するヤントラに変容すると心に思い描く。


 神との一体化を果たすこの段階で、瞑想者は涅槃(絶対の平安)と輪廻(迷いの世界)が、じつは同じものだということを理解する。神の慈悲と智慧に導かれて、瞑想者は日常的な人格を楽々と乗り越え、悟りの世界へ向かえるのである。


 マンダラとヤントラに違いがないわけではない。それは、三角形の多用だ。ヒンドゥー教の伝統では、三角形は神的なエネルギーの象徴とみなされる。そして上向きの三角形は男性原理を、下向きの三角形は女性原理を、それぞれ象徴する。さらにヤントラでは、上向きの三角形と下向きの三角形が複数組み合わされたかたちで描かれる場合も少なくない。これはいうまでもなく、この世が男性原理と女性原理の複雑な絡み合いから創造されていると言うことを視覚化している。

インドの伝統には、ヤントラのほかにも、現在までつづくマンダラがある。それが「ランゴリ」である。その担い手は女性たちで、複雑な形態のマンダラ型図形を描いて、自分たちの家や中庭を飾る。このテクニックは母から娘へと、世代を超えて継承される。その家のお祝い事のためにも、あるいは神々に家を守ってもらうための捧げ物としても描かれる。

キリスト教にまつわるマンダラ型図形として、もっとも注目すべき事例は、ベネディクト派の聖女ビンゲンのヒルデガルド(1098〜1179)が描いたものだ。多岐にわたる才能の持ち主で、哲学者、音楽家、詩人、画家、自然学者、博物学者、薬学者、医師として、たぐいまれな業績をのこしている。生まれつきたいへんすぐれた霊的能力にめぐまれていたらしく、何回も神秘的な体験をしている。


ヒルデガルドが描いたマンダラ的な構図の代表作は、「スキウィアス(智慧の書)」に添えられた「宇宙卵」といっていい。この宇宙卵は、世界中にあるどの宇宙卵とも似ていない。なにしろそれは、女性器の形にそっくりなのだ。

ヒルデガルドはこの宇宙卵のほかにも、マンダラ的な図像をいくつものこしている。そのひとつが「回転する天使の図」と呼ばれる事例。円が幾重にも重なりあっていて、よく見ると、それらの円が天使の上半身から構成されている。

マンダラとユング

ユングの数ある業績のうち、とくに大きいのは「原型(アーキタイプ)」というコンセプトを提唱した点だろう。ユングは、精神病者の幻覚や妄想が、個々人の環境や体験を超えて、昔からある神話や伝説などと共通するパターンの上に成立している事実を発見し、その共通するパターンを原型と呼んだのである。

ユングと言う人物は、単なる医学者とか治療者といった枠組みでは論じきれない、すこぶる不可思議な人格の持ち主だったようだ。彼自身が宗教家的な資質やカリスマ性にも恵まれていたという。すこぶる男性的な魅力に富み、多くの女性たちを惑わせたとも、かのフロイトすらユングの魅力の虜になったことがあったとも伝えられる。また若い頃は心身ともにひじょうに不安定だったらしい。

とくにマンダラとうシンボルは、患者がどのような状況にいるときに描き出す傾向が見られるか、を観察した結果、統合失調症精神分裂病)の患者が、失見当識の状態にあるとき、つまり「私は誰?なぜここにいるの?ここはどこ?いまはいったいいつ?」という風に自分自身がいまどういう状況に置かれているのか判断できない状態にあるとき、ややむずかしく言えば、自分自身に対する根本的な見当付けが健常に作用していない状態にあるとき、その傾向があることをユングは発見したのだ。


さらに観察を続けていくと、病状が悪化する時期よりも、回復しようとする時期に、マンダラは出現する頻度が高くなる事実にも、ユングは気づいた。主体性を喪失し、極端な没個性の状態に陥っていた患者に、「個性化」といって一人ひとりの個性がよみがえってくる過程で見る夢や、ユングが開発した能動的想像法を実践している最中に、もっとも鮮烈なマンダラのイメージが浮上してくる、とユングはいう。

これらの観察例から、ユングはこう結論付けた。マンダラは秩序の、そして心の統合と全体性の原型であり、患者が自らを治癒しようと、ほとんど無意識にこころみるときに出現する。したがって、マンダラは象徴という手段を通して対極にある存在どうしの熾烈な葛藤を調和に導き、崩壊していた秩序を再統合し、その結果、患者と世界が和解していくための、きわめて有効な方途になりうる、と。しかもマンダラは精神病患者が表現したものであろうと、チベットや日本の高度な宗教的伝統が伝承してきたものであろうと、根本的なパターンに一致が見出せるとユングはいう。なぜならマンダラは全人類に共通する集合的無意識に由来しているからであり、それゆえにマンダラこそは原型の持つ普遍的な作用をしめす最良の事例のひとつなのだと。

ユング密教の、マンダラ位置づけの相違点

ただし、ユングのマンダラ問題には、本来のマンダラとは根本的に異なる要素がある。それは自我あるいは自己と呼ばれるものに対する価値評価のちがいだ。それは「個性化」という概念に顕著である。


「個性化」とは、既に述べたとおり、精神を病み、主体性を喪失し、極端な没個性の状態に陥っていた患者に、一人ひとりの個性が蘇ってくる過程をさしている。では、一人ひとりの個性がよみがえってくるとは、具体的にはどういうことなのか。それは個人が社会的に成熟した人間になることに他ならない。ものごとの是非をわきまえ、意志の強い、分別ある大人になることが、「個性化」なのである。


ユングにしろフロイトにしろ、人間の精神は決意と欲望に従って確立されるという考え方に立っている。だから欲望は充足されるべきであって、欲望を鎮めていくことは抑圧以外のなにものでもないことになる。ユングのとなえる「個性化」も、むろんこの延長線上にある。



ところが、本来のマンダラの生みの親だった密教は、ブッダ以来の教えを守って、欲望を滅却する方向にある。いくら性的ヨーガを実践しようと、それもまた、欲望の滅却をめざす方法論のひとつであって、欲望そのものを全面的に肯定することはない。
 要するに、密教もまた仏教である限り欲望は否定される対象になる。いや、欲望だけが否定されるのではない。欲望をもつ自己こそが、仏教にあっては否定の対象に他ならない。ブッダの教えによれば、自己が実在すると言うのは思い込み以外のなんでもなく、迷妄以外のなにものでもないのだ。


 したがって、仏教における修行とは絶えざる自己否定の過程であり、否定の過程を経ていない自己は、仏教では訣別すべき対象でしかない。密教では、密教以前の仏教に比べれば、否定の度合いはゆるめられているとはいえ、欲望も自己もそのままの状態で肯定されることはない。マンダラもまた、この基本線から外れることは決してない。


しかし、ユングのマンダラ論ではマンダラは人並みの欲望をもった大人を育むためのきわめて有効な手段という位置づけにある。そもそも、「個性化」という概念からして、主体性を喪失し、極端な没個性の状態に陥っていた患者に、一人ひとりの個性が蘇ってくる過程である以上、自己肯定の極みではあっても、自己否定とは対極にある。その証拠に、大乗仏教が強調する「空」に類似する発想は、ユングのマンダラ論ではどこにも見当たらない。

この本はひらがな表記が多すぎます。打っててなんかイライラした。笑


とりあえず、マンダラというのは密教において生まれたもので、主に瞑想に使われた。密教の瞑想内容は、非常に具体的で、「〜〜こうイメージしてください」「〜に〜こういう状態でそこは〜〜〜こうなっています」という具合のようだ。そのイメージが瞑想内容通りに視覚的にされたのが一般に見られる円環状で神々が配置されたマンダラである。


マンダラ瞑想といって、そこに描かれている内容を瞑想していくことにより、そのイメージと自己が溶け合い、同一化していくための立派なひとつの修行法である。


真理は言語で認識することはできないが、ならばそれを象徴的に、視覚化させようという試みのようだ。



おもしろいのは最後の方の、ユング密教のマンダラの位置づけの対比だ。
ユングは調和や秩序、個性の顕在化というベクトルなのに対して、密教はあくまで自己の否定の果ての修行の完成(=ニルヴァーナっすか?)という点は非常に興味深い。


思索材料としてはかなり面白いと思う。
「マンダラは何を目指しているのか?」

特にこの本では触れられていなかったが、日蓮仏法における「文字」によるマンダラ表現は歴史上初のものである。これの意味するところは何か。考えてみたいところである。


蛇足だが…、

臨床心理学で使われるアセスメントのひとつに「バウムテスト」がある。「実のなる木を一本描いてください」と言って木を描かせて、その形状から病相を判断するやつね。あれを考えた人の理論で「空間象徴理論」っていうのがあるんだけど、あれ、日蓮の文字本尊の構造にそっくりなんだよね。
ユング曼荼羅にもそっくりでびっくりだ!って本人は言ってたみたいだけど。長方形を縦に置いて、中心点を通るように縦・横・ナナメの対角線をひくんだけどね。描画法とか、「投映」の概念は考え方はけっこう、興味深いものがあるんすよね。


まぁ、それはいいや。蛇足でした。