感情はどこからやってくるのか 〜現象学の視点から〜

サイファ覚醒せよ!―世界の新解読バイブル (ちくま文庫)

追記:2009.9.16
本書のキーは「ゲーデル不完全性定理」。文系的に表現すると、この世の「不条理」。
理性を研ぎ澄ましていくと、人間の認識は必ずこの不条理にぶちあたる。「なぜ生まれてきて、なぜ死ななければならないのか。」人間にその理由が教えられることはない。答えは出せない。なぜならその理由は、「生死の根拠」は理性を超えているからだ。まさに不条理。人間にとってこれほどの不条理があろうか。この不条理を本書では「サイファ」「世界の根元的な未規定性」「超越論的」「語りえぬもの」…等様々な言葉で表現するが、要するに不条理、である。(物理学的に言えば「不確定性原理」。)


世界を覆う理性の限界性。その「しわよせ」を処理しているのは何かと問えば、宮台曰くはそれは神話や宗教である、と。論理で理解できないものたいして、せめてもの合理的な説明を与えたい人間がつくりだした「装置」に過ぎない、と。ただ、それを理解できないからと放棄するのではなく、徹底して論理を研ぎ澄まして、その不条理と真っ向から向き合っていけ、という感じの内容。そのひとつの例えとして、「感情」を挙げている。つまり感情がやってくることそれ自体が、そもそもの不条理である、と。そこからでもサイファに迫れるよ、と。それをフッサール現象学を引いて説明しているのが下記の文章。


「感情心理学」とかいうのもあるが、実は「感情」は心理学でも難問。扱いが難しいらしい。私見も混じっているが、フッサール現象学は幻覚体験を考える際の一助になる。要するに感覚や知覚の障害。感情や感覚は「降ってくる」もしくは「訪れる」ものであり、制御がきかない。「訪れた」ものがすでに障害されている。…いや、障害という表現はおかしいかもしれない。もうそれは「訪れて」しまったのだから。どこかもわからない、不条理の世界から。(周囲からのDisorder=逸脱、という意味では障害だが。)

誰もが同じ感覚を共有してなどいない。バラの花一本見て、同じ「赤色」を見ている人はいない。見る角度や、目の個性で、それぞれが微妙に違った色を見ている。要するにそういうことだ。ひとりの人間の生きる世界は、脳に勝手に「訪れて」、脳内で生成されている。そしてそれが外的世界に投影される。メラニークラインの対象関係論的に言えば、人は外的世界を生きているようで実はそれは投影世界に過ぎず、実は自身の《内的世界》を生きている。そのからくりが、「客観的な世界を生きている」という錯覚を人間に引き起こしていると考えられる。クラインの精神分析的プレイセラピーの原理を読んでいて、なんとなく直感的にそれを理解した。


おそらくそんなとこだろう。


 「感情」というのは「意志」とは違います。どこが違うのか。一口で言えば「意志」は「行為」ですが、「感情」は「体験」です。もう少し咀嚼しましょうか。
 僕たちは「意志」を「意志」しますよね。「これをしよう」とか「これを書こう」とか、「こいつを攻撃しよう」とか。逆に言えば「意志」は「意志しない」こともできるわけです。でも、「感情」はそうではない。たとえば、憎しみ。「コイツを憎もう」と思って憎むわけではなくて、否応なしに憎しみが「訪れて」しまうわけでしょう。喜びも「訪れて」しまうし、悲しみも「訪れて」しまうのです。つまり「感情」は「行為」ではなく「体験」です。「感情」が「訪れる」のを「求めて待つ」という「行為」はありえますが、それは「体験」を待つという「行為」であるわけです。


 では感情は「感情しない」ことが可能でしょうか。ドニ・ド・ルージュモン『愛について』以降の「恋愛の観念史(ヒストリーオブアイディアズ)」に関する研究を待つまでもなく、「情熱としての愛」を構成する「情熱」という観念は、これが主体の制御に服さないどころか、主体をやすやすと破壊してしまうというところに、ポイントがあります。だからこそ、情熱愛は12世紀以降、しばしば「病」として表象されてきたわけです。「病」に罹ったり患ったりするのは、主体の制御に属さない「体験」です。どんなに気を遣ったりしても、癌になってしまったりするでしょう。


 そこに草が生えていたり桜の木があったりするのが、主体にとっては「体験」であるのと全く同じように、そこに「感情」が訪れるのもまた「体験」であるわけです。違いがあるとすれば、草や木は物理現象ですが、それがそこにあることを誰もが「体験」できますが、感情は物理現象ではなく心理現象だと言うことです。つまり、それがそこにあることを誰もが「体験」できる、ということが原理的にありえません。こうした違いは確かに「体験」についてのコミュニケーションを一定程度方向づけますが、それにもかかわらず、「世界」からの「訪れ」であるという点で共通しています。「世界」からそれが「訪れる」ということ自体が、とてつもなく不思議な、ありそうもないこと、すなわち「名状しがたい、すごいこと」であるといえます。


 ところが、ありえそうもなさ=「名状しがたい、すごいこと」は、その先にもあるんです。心理現象は物理現象と違って、誰もがそこにあることを確証できる、ということがありません。いいかえれば、特定の誰かを訪れたものである他はありません。ところで、「感情」はいったい誰を訪れているんでしょうか。とりあえず、僕を訪れていることになっているけれど、「感情が訪れているのは、ここにいる僕(経験的主観)だ」というのも、実は訪れた「体験」であって、後者の「体験」が誰を訪れたのかということは、よく反省してみると少しも自明ではありません。


 現象学という哲学は、そこで「経験的主観」と区別された「超越論的主観」という概念を立てます。ほら、「超越論的」ときた。もうお分かりですよね。先の後者の「体験」が誰を訪れたのかを指し示すパースペクティブ(視座)は、「世界」の内にあると考えても外にあると考えても矛盾するような、奇妙な性質をもっているからです。いいかえれば、「この私」の「この」性は「世界」のどこにどう存在するとは言えない、ヴィトゲンシュタインの『哲学探究』的に言えば「語りえぬもの」です。こうして体験の「訪れ」の発信源をたどっても「サイファ」が見つかるし、逆に「体験」の訪れの着信先を辿っても「サイファ」が見つかる。簡単に言えばフッサール現象学はそういうことを言ったわけです。


 現象学はそれをちゃんと言葉で表現した。僕は現象学が言ったことは正しいと思うよ。でも、難しくて、本を読んでもよく分からない人が多いかもしれない。こういう大事なことは、誰にでも理解できるように、誰かが話さなければいけないし、僕が今試みているように、努力すれば話せると思うんだよね。日本では「アカデミズム」も「批評家」もスノビッシュな特権主義者ばかりでそういう基本的努力を怠ってきたわけだけど。




 もう一度いうと、「感情」が「自分」を「訪れる」という「体験」の意味を徹底的に考えるだけでも、「世界の根元的な未規定性」へと開かれることができるというわけです。