人間に与えられた「命題」とは?


ふと思う。

――――人間という情報処理機構に与えられている命題とは何だろう?


つまり、


「人間の意識が存在する理由」とは?


もっといえば


「人間が存在する理由」とは?





突然何かというと、コレ、「志向性」の話。J・R・サールに指摘されている、認知科学人工知能、哲学上の問題のことである。


超乱暴な説明をする。
つまり、すべての情報処理と名の付くプログラムには「使用者」がいてはじめて「目的」が与えられるものである。
つまりつまり、すべてのプログラムには、「目的」があるはずである。


「命題」ともいえるだろうか。



無目的に、情報処理能力を与えられた機械は、機械とは言わない。それは「ガラクタ」と呼ぶのが相応しいだろう。(もしくは宝の持ち腐れ。)


ということはどうなるかというと、



人間もひとつの「情報処理機構」であり、「生命」である以上、なんらかの「命題」が与えられている筈なのだ。


…いや、むしろ「命題」が与えられているからこそ、「生命」と呼ぶのかもしれない。生命が「情報」であるのはまず間違いないからだ。生体によって瞬間瞬間処理されたその刹那の、宇宙の情報の断片―――生命。


目的があってこそ、生命は輝く。


さてそれで、人間に与えられている「命題」―――それはなんだろうか?



とりあえず思い浮かぶのが「生存」。生物の構造上、これはあるだろう。次の世代へと命をつないでいく、そのための「生存」。



つまり、これをとりあえずのところ「幸福」としよう。「幸福」―――。


生物は「幸福」になりたいから、生きる。


人間は、「幸福になるにはどうしたらいいか」という命題を解くために、絶えず情報を処理し、生きる。
「幸福になるための最適化理論を探す旅」だ―――。



そこに先日の「利己」とか「利他」とかいう判断が待ち構えている。
多くの人が迷い、苦しむあの問題が。


その判断は「ハイ、こうです」といえるような単純な問題ではない気がする。
瞬間瞬間その解の出し方が変わる。


―――ゆえに生きるっていうのは、大変だ。