論理哲学論考、抜き書き その2

明日、太陽が昇るというのは仮説である。我々は昇るかどうかを知らない。
これが起こったからあれが起こるという必然性はない。論理的必然性だけがある。

世界は、私の意志から独立である。

たとえ我々の願いがことごとく叶うとしても、世界と意志の間にそれを保証する論理的連関がなく、また想定した物理的連関はもはやそれとして意志することができない以上、いわば運命の恩恵に過ぎない。

論理的必然性だけがあるように、論理的不可能性だけがある。

世界の意味はその外にある。世界のうちではすべてあるようにあり、なるようになる。うちにはどんな価値もない。もしあるならば、価値ではなかったのだ。
もし価値があるのなら、それが価値を持つのなら、すべてのこうあるとそうなるの外にある。なぜなら、すべてのこうなるとそうなるは偶然であるから。
それを非偶然にするものは世界の「うち」にはない。あればまた偶然に落ち込むだろう。

それは世界の外にある。


それゆえ倫理の命題もない。
命題はより高いものを表現できない。


倫理が言い表せないことは明らかだ。

倫理は超越論的である。
(倫理と美はひとつ)


倫理の担い手としての意志については語りえない。

善い、悪いが世界を変えるとすれば、それはただ世界の境界だけを変えられる。事実ではなく、言語で表現できるものではなく。
つまり、それによって世界はおよそ別の世界になる。いわば、全体として大きくまたは小さくなる。

幸福な人と不幸な人の世界は別である。

死に際しても世界は変わるのではなく、終わる。


死は生の出来事ではない。人は死を体験しない。


永遠を、永遠ではなく無時間性として解すれば、いまを生きる人は永遠を生きる。
生は、視野に境界がないように限りない。

人間の魂の時間的な不死性、すなわち死後もつづく永遠の生はけっして保障されないばかりか、そもそも、人が長い間それによって手にしたがってきたものを導く想定にはなっていない。いったい永遠に生きれば謎は解けるのか。その永遠の生は、現在のそれと同じだけ謎に満ちているのではないか。空間と時間のうちにある生の謎が解けるのは、空間と時間の「外」だ。

世界がどのようであるかは、より高いものにとって完璧にどうでもよい。
神は世界のうちには顕れない。

世界の在り方ではなく、在る「こと」が神秘だ。

答えが言い表せないならば、問いも言い表せない。
謎はない。
そもそも立てられる問いならば、答えることもできる。

我々は、たとえ可能なすべての学問のすべての問いが答えられたとしても、生の問題は触れられていないとさえ感じる。もちろんそのとき問いはひとつの残されていない。そのことが答えだ。



生の問題の解決に、人はその問題の消滅によって気づく。
(これが、長い懐疑の末に生の意味を悟った人が、その意味を言葉にできない理由ではないか。)


言い表せないものはもちろんある。それは示される、神秘だ。

私の命題は、私を理解する人が、それによって、その場所で、その上へ越え出とき、最後に無意味だと認識されることによって注解する。
(いわば上りきったはしごは投げ捨てられる。)
これらの命題が不必要になるとき、世界は正しく見える。

語りえないことについて人は沈黙する。



―――こうして打っていると、なんか呪文みたいだ。笑
というかこの本の訳しが、いい◎ということに気づいた。