ミュージシャンや偉人たちの、「共感覚」的発言の数々

やはりどうも天才には「共感覚」の能力を持った人間が多い。音楽家共感覚が多いのはよく言われるところであろう。そして、音楽家に限らず、共感覚を持つ人間には天才が多い。

ベートーヴェン

私は作品について調べ始める。その大きさ、その狭さ、その高さや深さを丹念に調べ上げていく。そしてついに自分の求めていることに気づく。そこに潜んでいるアイデアは枯れ果てることがない。そのアイデアは立ち上がり、成長し、やがて私の目の前にイメージを作り出していく。私はそのイメージがまるで彫刻であるかのように、全方向から見聞きする。あとはそのイメージを譜面にまとめ上げればいいだけだ。

驚くべきことにベートーベンの説明はほぼすべての部分においてモーツァルトのそれと一致している。曲が成長し、彼の目の前に彫刻のように現れ、彼はそれを見聞きすることができるのである。結果的に、あとはそのイメージを譜面にまとめるだけ、ということに。

マイケルジャクソン

夢を見ている状態から醒めると、「あ、これを書き留めておこう」と思うんだ。夢の中では言葉が聞こえていて……とにかく自分の目の前にすべてが揃っている状態なんだ。だからね、自分の曲を誉められるのはなんだか居心地が悪い。だって僕はある場所の、どこかにすでにあったものを感じ取って、それをこの世に紹介しているだけだから。僕はただの「配達人」みたいなものなんだ。


(1983年の『ローリングストーン』誌のインタビュー)


ポールマッカートニーもテレビ番組のインタビューでこれと似たような経験を答えている。ちなみに彼はクラシック音楽も作曲している。ビートルズ時代、どこで、いつ、どのようにして作曲しているかを尋ねられ、答えたエピソード。

ポール・マッカートニー

あの当時、ローリングストーンが素晴らしい曲を演奏してる夢を見たことがあった。それはもう、こっちが嫉妬するくらい素晴らしい曲でね。その夢から覚めたとき、今まで録音したこともなければ、演奏したこともないような曲が閃いたんだ。だから大急ぎでそれを書きとどめてレコードにした。それが『イエスタディ』だったのさ。


こういった感覚の表現は、音楽に関係ない創造プロセスにも当てはまるようだ。たとえば、アルバート・アインシュタイン相対性理論に関してこんなふうに説明している。

アルバート・アインシュタイン
本当に生産的な人というのは、方程式などにはとらわれない。いくら原理や公理をいじくりまわしても、相対性理論は生まれてこなかったと思う。ああいう思考は「言語」以外の形をとらないと生まれてこないものなのだ。私自身、言葉を連ねて思考することはめったにない。ある考えがふっと思い浮かぶと、それをあとから言葉で表現しようとする感じである。


言葉や言語とは書いたり話したりするものだ。私の思考プロセスにおいて、言葉や言語がそれ以外の役割を果たすことはない。程度の差はあるが、何かを考えているとき、私の頭の中で作用しているのはある種のサインであったり、明確なイメージであったりする。それらが「自分から進んで」再生され結合していく状態だ。私の場合、その種の要素は視覚的で力強いものであることが多い。言葉やらその他のサインやらを苦労して探すのは、第二段階に入ってからのことだ。その第二段階において、前述の連想プロセスが十分に確立され、意のままに再生が行われることになる。


なんか『共感覚』ていうより、『第六感』って感じなんだけどさ…。笑


おそらく第六感というよりは、「情報の根源的な存在がある」と表現した方がいい気がする。
つまり、視覚、聴覚、味覚、嗅覚、皮膚感覚などの「五感」は、元のカタチはおんなじ根源的な『情報』をそれぞれの感覚に「エンコード」された結果生じる感覚なのではないか、ということ。


例えばこれは、ある動画ファイルを見るにあたり『拡張子』をどうするか、という問題にも例えられるだろう。


「〜.flv」ならプレイヤーはFLVプレイヤーでしか見れないし、「〜.wma」ならWindows Media Player、みたいな。どちらも同じ情報であることに変わりはない。この場合、動画を再生するプレイヤーが目、耳、鼻、舌、皮膚…といった感覚器官にあたり、「拡張子」はその器官で再生するのに必要な「エンコード処理」なのではないか。


仮にそうだとして、共感覚は、同じ拡張子のまま、複数のプレイヤーで情報を再生できる能力と考えられる。


おそらく情報にはモーツァルトやマイケル、ポールの感じたなんらかの「美」が存在し、そのバランスを表現するには共感覚があるとその表現に都合がいい。その美は数学的な「黄金比」や「フィボナッチ数列」みたいなものかもしれないし、他のものかもしれない。とにかく、自分の中で「五感というのは同じ情報の表現の違いでしかない。どの感覚にエンコードするかでしかない」というのは、ある意味、確信した。